江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(彰義隊の江戸史跡を歩く)

彰義隊戦闘図
彰義隊黒門前戦闘の図
黒門
現在の黒門(円通寺)

彰義隊の上野戦争図

コ川慶喜は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れ 江戸城に戻っていたが、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。 これに不満を持った幕臣らが、将軍コ川慶喜の警護を目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって彰義隊が結成された。 幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなったが、新政府軍のいざこいが絶えず、慶喜が上野から水戸に移った後も 彰義隊は江戸に残った。ついに慶応4年5月15日大村益次郎が指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。

<住所>
台東区上野公園
<交通>
JR・東京メトロ銀座線、日比谷線「上野駅」より
徒歩5分
彰義隊上野戦争
彰義隊の墓

彰義隊士の墓

彰義隊戦死者の遺体は、新政府軍を憚り放置されたままであったものを、三ノ輪円通寺の仏磨和尚と寛永寺の御用商人の三河屋幸三郎が戦死者供養の官許を受けて上野山で荼毘にふし、一部を円通寺に埋葬した。

<住所>
台東区上野公園
<交通>
JR・東京メトロ銀座線、日比谷線「上野駅」より徒歩5分
西郷隆盛銅像
西郷隆盛銅像(上野公園)


西郷隆盛銅像(上野公園)

慶応4年5月15日(1868)新政府は上野山に立てこもる彰義隊に対し、総攻撃の断を下した。その時征討軍の総指揮をしたのは長州藩の大村益次郎であった。征討軍の彰義隊攻撃の部署は、まず湯島を経て黒門口に向かうのが薩摩、因州、肥後の各藩兵。団子坂から背面を突くのが長州、大村、佐土原の各藩兵。砲隊を主力とする肥前、筑後、尾張、津、佐土原の各隊は本郷台に陣どり、側面から攻撃する。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残しておいた。もっとも激戦が予想される黒門口が薩摩兵ということで、西郷は大村に対し「薩摩兵を皆殺しになさる気ですか。」と問うと大村は「そうです。」とにべもなく答えたという。
上野山を攻めた西郷さんの銅像の後ろには彰義隊の墓がある。

<住所>
台東区上野公園
<交通>
JR・東京メトロ銀座線、日比谷線「上野駅」より徒歩5分
彰義隊戦闘の図02
上野山戦闘の図
上野公園 寛永寺跡
寛永寺根本中堂があったところ。

彰義隊の上野戦争と寛永寺

慶応4年5月15日(1868)雨が降りしきる中、午前7時頃から黒門口(広小路周辺)や側門の団子坂、背面の谷中門などで戦闘が開始された。 征討軍約10,000名に対し彰義隊は約4,000名とも言われたが、戦争近しと聞いて脱走する者も多く、実際には約1,000名ほどになっていた。 正午ごろまでは勝敗はいずれとも決しなかったが、 本郷台に据えられた肥前藩のアームストロング砲が 寛永寺に向けて発射されると、一気に加勢は挽回し 彰義隊の敗色は濃くなった。戦斗は午後5時ごろには 決着がついた。この戦争による戦死者は征討軍側100余名に対し、彰義隊側は266余名となった。 戦闘は大村益次郎の言った通り、1日で終結した。

<住所>
台東区上野公園
<交通>
JR・東京メトロ銀座線、日比谷線「上野駅」より徒歩5分
清水観音堂


清水観音堂

天海僧正が京都の清水寺の観音堂を模して寛永8年(1631)背後の摺鉢山に建てた。元禄11年(1698)に焼失したのち、この地に再建された。ここから眺める不忍池は、比叡山から眺める琵琶湖に見立てられている。彰義隊の上野山戦争の戦火、関東大震災、東京大空襲との避け奇跡的に残っている貴重な建物である。 欄干の擬宝珠の1つに「寛永十三(1636)天十一吉寄進大工椎名兵庫」とある。彰義隊上野戦争図の絵が飾られている。

<住所>
台東区上野公園・池之端3丁目
<交通>
JR・東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」より徒歩5分
アームストロング砲
本郷台よりアームストロング砲で砲撃
大村益次郎銅像
大村益次郎銅像(靖国神社)

大村益次郎とアームストロング砲

上野戦争での新政府軍総指揮官が長州藩の大村益次郎である。村医者の長男として生まれた。 上野戦争は正午ごろまでは決着がつかなかったが、本郷台に据えられた肥前藩の当時最強のアームストロング砲の砲撃が上野山に向かって発射されると威力を発揮し、薩摩兵の黒門突破により彰義隊の敗北が決定的となった。戊辰戦争では、新政府軍の軍事指導者として活躍し、終結後の新政府では兵部大輔になる。だが、軍制改革を推し進める中、刺客に襲われ、その傷がもとで没する。靖国神社に建つこの銅像は、上野戦争時の姿がモデルという。

<住所>
千代田区九段北3-1-1
靖国神社
<交通>
JR「飯田橋駅}より徒歩10分
東京メトロ東西線
都営地下鉄「九段下駅」徒歩5分
慶喜謹慎の間
慶喜謹慎の「葵の間」 (非公開)
寛永寺大慈院
大慈院
コ川慶喜
コ川 慶喜

コ川慶喜謹慎の部屋
(葵の間) (寛永寺大慈院)

慶応4年2月12日(1868)徳川慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺内の大慈院に向かった。警備にあたったのは、寺社奉行の内藤正誠(まさのぶ)以下、」精鋭隊70名、見廻組50名で、新撰組は沿道に潜んで警戒にあたった。上野に到着した慶喜はまず寛永寺に参拝し、次いで輪王寺宮に参拝して朝廷への謝罪の周旋を依頼している。その後大慈院の4畳半の間に入って謹慎生活を始める。月代も髭も剃らず、ひたすら恭順の姿勢を示した。4月11日、慶喜は大慈院を出て水戸へと向かうこととなる。その間の3月13日、14日と勝海舟は江戸城総攻撃の回避と、徳川家の存続に尽力を尽くした。慶喜も江戸城総攻撃予定の3月15日には日記を焼却している。4月4日には徳川処分の発表があって、慶喜の水戸退去が決定した。江戸城開城の前夜10日夜、慶喜は勝海舟を大慈院に呼び、その尽力に感謝し刀を与えると、海舟は慶喜の前で号泣したという。慶喜の出で立ちは小倉袴に黒木綿の羽織を着し、2か月に及んだ謹慎生活のため、顔色は悪く、その顔を髭が覆っていた。幕臣と遊撃隊、彰義隊に護衛された慶喜は三ノ輪から千住へと抜け、水戸街道から水戸へと向かった。

<住所>
台東区上野桜木1-14-11
<交通>
JR「鶯谷駅」南口より徒歩5分
コ川慶喜墓
コ川慶喜の墓(神道式)

コ川慶喜の墓(谷中霊園)

歴代の徳川将軍は仏式で葬儀を行い、家康、家光を除く歴代将軍は寛永寺か増上寺のコ川家霊廟に葬られている。 ただ、将軍職を返上した慶喜は、遺言として生家である水戸徳川家に準ずる 神式を望み、コ川将軍家の墓所には入らず、墓も谷中の地を選んだ。隣には夫人美賀子の墓が並んでおり、 背後には晩年の側妾たちと奥向き女中頭の小さな墓が控えている。 コ川将軍の墓で神道式は慶喜のみ。

<住所>
東京都台東区谷中7-5-24 
谷中霊園
<交通>
JR「日暮里駅」南口徒歩6分
東京本願寺
東京本願寺
天野八郎
天野八郎

彰義隊屯所跡
(現東京本願寺)

慶応4年2月12日(1868)雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」に会合した17名の主戦派旧幕臣は2月17日に四谷の円応寺で再会合を開き、その時は30余名の人数になっていた。彼らは「尊王恭順有志会」と名乗り、2月23日に浅草本願寺(現東京本願寺)を借用した際にも同名の門札を掲げている。隊名を決めるための会議を開き「彰義隊」の名が決まった。彼らのもとに参集する旧幕臣が300名近くになり、事態を憂慮した勝海舟は、彼らに江戸市中見廻りの要請をした。 その後、屯所を上野寛永寺、大慈院に謹慎中の将軍徳川慶喜を警護するため上野管内の諸院に移転した。

<住所>
台東区西浅草1-5-5 東京本願寺
<交通>
・東京メトロ銀座線「田原町駅」より徒歩5分
・都営浅草線「浅草駅」より徒歩10分
・つくばEXP「浅草駅」・つくばEXP「浅草駅」より徒歩7分

上野動物園
元寒松院跡

彰義隊本陣跡(寒松院跡)
(現上野動物園内)

浅草本願寺より上野に移った彰義隊は、本営を徳川慶喜の謹慎する大慈院の南方にある寒松院に置いた。4月11日将軍慶喜は水戸へ旅立ち、江戸城は接収された。 慶喜が旅立った後も、彰義隊は徳川家代々の重器が運び込まれ、新政府軍の解散命令に従わずにいた。隊士は主に25名から1番隊から18番隊まで編成された これに、各藩ごとの隊も加わり、上野戦争開戦前には3,000名を超えるまでに 増えていた 。

<住所>
台東区上野公園
<交通>
JR・東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」より徒歩5分

 

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