東京散歩「江戸史跡散歩」 |
中高年にお勧め。散歩を通して江戸の歴史を知ることが出来ます。古地図を片手に、さあ江戸史跡散歩に出掛けましょう! |
東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸城史跡を歩く)
現在の写真は、東日本大震災の影響を受け渡櫓の壁が一部欠落しております。 |
大名や役人が本丸の登下城する際の正門であった。 |
大手下乗門・下乗門・極楽門ともいう。 |
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現在の中之門跡 旧中之門(明治初期) |
大門6門中唯一枡形門形式ではなく、左右に長く連なる多聞塀の中間を切って切って櫓を渡した櫓門である。「中之門跡」の標石の手前に目を向けると、櫓門の礎石の丸い穴の跡がある。 石垣は白い花崗岩と黒い安山岩とで築かれている。白い花崗岩は瀬戸内の犬島か小豆島あたりから、黒い安山岩は東伊豆から運ばれてものである。当時の中之門跡の上には渡櫓があり、左手には屏風多聞櫓、後方には御書院出櫓があった。現在は土台の石垣のみが残っている。 |
本丸御殿に達する最終の門である。御三家もこの門前で駕籠をおりて徒歩ではいった。中雀門の名は、寝殿造の中門にあたるものとして城中につくった中柵門が転訛したものであるという。
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この坂を下ると二の丸に至る。江戸時代にはここから海が眺められたのでこの名がついたという。しかし17世紀後半には下町方面が埋められて、海岸線がすでに遠くなっていたようである。この坂の石垣は、石の角をたたいて平らにし、互いに組み合わせて表面を仕上げた打込接(うちこみはぎ)という積み方である。 |
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枡形門が完全な姿で残っている。 |
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平川門の枡形内部に設けられた高麗門。 |
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昔、竹で編まれた橋があったからと言われる。 |
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現在の北拮橋門 |
もともとは枡形門形式であったが、現在は高麗門だけが復元されている。 |
かって瓦などに桔梗の紋が施されていたことから、別名「桔梗門」とも呼ばれる。現在は宮内庁の関係者や皇宮警察官専用の出入り口となっている。一般の方は、予め園内見学の許可を取ってある場合のみ利用できる。
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外桜田門(高麗門) 外桜田門(櫓門) |
内桜田門と外桜田門がある。通常「桜田門」という場合はこの外桜田門のこと指す。枡形門の遺構がよく保存されており、西からの敵を想定した城門。 |
西の丸の坂下にあったので、この名がついた。 |
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家康入府前は、この門があったあたりは日比谷入江と呼ばれる海が広がっていた。西の丸防備のため造られた門。
和田倉門のワタは「海」、クラ「蔵地」からきている。
嘉永6年(1629)に浅野長晟(ながあきら)と加藤忠広が、和田倉門から桜田門までの石垣を築いた。 |
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現在の半蔵門 |
付近には、伊賀忍者・服部半蔵の組屋敷があったことが名前の由来。 江戸時代、山王祭の山車は、半蔵門から江戸城内に入り、将軍上覧の栄誉に浴した後、竹橋門から城外に出た。歌川広重の江戸名所百景にも描かれている。 |
大奥側より中奥・表方面望む 現在の本丸御殿跡 現在の皇居見取図 江戸図屏風 |
本丸御殿は慶長11年(1606)新造され、2度の改築を経て、寛永17年(1640)に将軍居館として完成した。以後焼失と再建を繰り返したが、殿舎の規模、構造はほぼ寛永17年(1640)のものを踏襲している。 |
大広間の奥にある広い中庭に沿って鉤の手にまがって白書院(将軍との対面所)に至る廊下が松之大廊下である。この大廊下の西側には御三家などがつめた部屋があり、その部屋と廊下の仕切りの障子や壁に松と群れ遊ぶ千鳥が描かれていたのでこの名がついた。 |
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慶長11年(1606)本丸造営工事の際に加藤清正によって櫓台地域の石垣が築かれ、櫓もこの時創建されたと思われる。本丸の南隅にあたるこの位置は、太田道灌時代の「含(がん)雪(せっ)斎(さい)」(富士の白雪を眺める部屋)あるいは、「ふし見やくら」があったともいわれるところである。天守台につぐ高所である。(海抜21m) 明暦の大火で焼失後、万治2年(1659)三重櫓として再建され現在に至っている。 優美な姿はどこから見ても同じ形に見えるため、俗に八方正面の櫓とも呼ばれた。 江戸城遺構の内三重櫓としては唯一のものである。 江戸城のほぼ中央部にあったこの櫓が、天守閣の役割を果たした。 慶応3年(1868)5月、上野彰義隊との戦いの際、新政府軍の指揮官大村益次郎は、この櫓から上野寛永寺の堂塔が燃えているのを見て勝利を確信したという。 |
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本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にある優美な城櫓。 白い壁と石垣、重厚な屋根瓦が緑に映え、水面に映る姿が何とも美しい。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」 「桜田二重櫓」ともいわれる。 |
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この石室の用途は明らかではないが、中奥と大奥との境の中奥側の上御納戸の脇にあったので、将軍の衣服や装束・調度などを、火災などの非常の際に収めた収蔵庫ではないかと考えられている。 |
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中ノ門を過ぎると、それまで微妙であった勾配が急に増し、本丸御殿に向かう道は急坂になる。右手にある大番所は身分の高い武士たちが詰めて、監視をしていた。 |
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大手三ノ門と中ノ門の間にある、江戸城内最大の検問所である。 若年寄支配で鉄砲百人組(単に百人組ともいう)が警備していた。 百人組には甲賀組・根来組・伊賀組・二十五騎組の4組があり、同心100人ずつが所属して昼夜交替で警備していたのでこの名称がついたという。 |
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ここには警護の武士たちが詰めており。本丸御殿に向かう人たちに目を光らせていた。警備担当は現在の大久保辺りに住む、軽輩の武士たちであった。 |
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本丸の多聞は15棟あった中で唯一現存するものである。中奥にあって将軍が日常政務をとり、寝室ともしていた御休息之間の前に位置していたので、江戸城では御休息所前多聞といわれていた。 |
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現在の天守台 焼失前の天守閣図 |
本丸最奥部で、本丸台地の一番高いところ(標高25m)に位置していた。
慶長11年(1606)に天守台が、翌年には五層の天守閣が建造された。場所は大奥と中奥との境辺りであった。
その後、元和8年(1622)本丸の大改造に伴って現在地に改築された。
寛永14年(1637)と承応2年(1653)と修築を重ねた。
寛永時の天守閣は南側に小天守台を伴う、天守台の石垣の高さは13.8m(京間7間)天守台の上には南北39.2m×東西35mの広さがあった。 |
大奥の賄所か東長局調跡に残る井戸 |
大奥は御台所(正室)や側室、生母、奥女中たちが生活する場であり、将軍の私邸であった。江戸城本丸の総建坪は弘化2年(1845)のころ、1万1千373坪(約37,530u)の内大奥の占める割合は6千318坪(約20,850u)で表と中奥を合わせた4千688坪(約15,470u)よりも広い。 大奥は御台所が住む「御殿」奥女中たちの住む「長局」そして幕府の男性役人が勤務する「御広敷」の三つに分かれていた。御広敷の中でも広いのは調理場で、井戸つきの板の間で、200坪(約660u)あった。かまどは6つあり、それで煮炊きをした。調理場で働く男たちは下男を含め約140名ほどいた。 |
江戸時代の絵図面の基づいて、小堀遠州作とされる、回遊式庭園を復元。
園内には水生・陸生の植物が多数植えられ、季節ごとに美しい花を咲かせる。 |
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明治天皇の宮殿造営に伴い、かって江戸城の中枢であつた場所は皇室付属庭園となった。同館は皇室から国に寄贈された歴代の書画、工芸品などがテーマを替え展示されている。 |
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売店と無料休憩所とトイレがある。 |
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展望台からの眺め |