江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸城史跡を歩く)

大手門
現在の写真は、東日本大震災の影響を受け渡櫓の壁が一部欠落しております。

■大手門

大名や役人が本丸の登下城する際の正門であった。
登城する者は、大名と50歳以上で特に乗輿を許された役人以外は、門外の濠端の下馬札の建っているところで乗り物を降り、徒歩で入城した。
この門は元和6年(1620)、伊達政宗、蒲生忠郷、相馬利胤の御手伝普請によって築造されたが、明暦の大火(1657)で類焼し、以後何回かの修理を重ねてきたが、昭和20年3月の東京大空襲で渡櫓が焼失していたが、昭和42年(1967)に修復工事が完成し、かっての江戸城正門の偉容が再現された。

大手三の門跡

■大手三ノ門跡

大手下乗門・下乗門・極楽門ともいう。
大正8年(1919)宮内省諸施設を建設する際、桔梗門から天神濠に至る旧二の丸と三の丸の間の濠約3.9haが埋められたため、門前の石垣沿いの濠も下乗橋も現在はない。この橋前で御三家(尾張・紀州・水戸の3徳川家)を除くすべての大名・役人は、駕籠をおりて徒歩にて入門をした。

中ノ門跡
現在の中之門跡
江戸城中之門旧
旧中之門(明治初期)

■中之門跡

大門6門中唯一枡形門形式ではなく、左右に長く連なる多聞塀の中間を切って切って櫓を渡した櫓門である。「中之門跡」の標石の手前に目を向けると、櫓門の礎石の丸い穴の跡がある。 石垣は白い花崗岩と黒い安山岩とで築かれている。白い花崗岩は瀬戸内の犬島か小豆島あたりから、黒い安山岩は東伊豆から運ばれてものである。当時の中之門跡の上には渡櫓があり、左手には屏風多聞櫓、後方には御書院出櫓があった。現在は土台の石垣のみが残っている。

中雀門跡

■中雀門跡

本丸御殿に達する最終の門である。御三家もこの門前で駕籠をおりて徒歩ではいった。中雀門の名は、寝殿造の中門にあたるものとして城中につくった中柵門が転訛したものであるという。

 

汐見坂門跡

■汐見坂門跡

この坂を下ると二の丸に至る。江戸時代にはここから海が眺められたのでこの名がついたという。しかし17世紀後半には下町方面が埋められて、海岸線がすでに遠くなっていたようである。この坂の石垣は、石の角をたたいて平らにし、互いに組み合わせて表面を仕上げた打込接(うちこみはぎ)という積み方である。

平川門

■平河門

枡形門が完全な姿で残っている。
平川掘に延びる細長い帯曲輪を持つ特異な門。帯曲輪に守備兵を配置すれば、堀の向こうの敵を迎撃できる、まさに江戸城北方の守りの要となる門である。又大奥に近く大奥女中の門であり「お局門」とも呼ばれた。家光の乳母、春日の局が門限に遅れ、ここで一晩明かした逸話は有名。

不浄門

平河門(不浄門)

平川門の枡形内部に設けられた高麗門。
城内から死者や罪人などを運び出すのに使われた。忠臣蔵の浅野内匠頭長矩や、大奥の絵島などもこの門から出された。

竹橋

■竹橋門跡

昔、竹で編まれた橋があったからと言われる。
江戸城の内部に設けられた門の内、最も外堀と近接していた。 明治11年(1878)、竹橋関内に駐屯する近衛歩兵団第一大隊の下士官と兵士ら、260名が反乱を起こした「竹橋事件」の地である。原因は、西南戦争の論功行賞に不満を抱いたのが原因。大隊長らを殺害した反乱軍は大蔵卿・大隈重信邸を襲い、赤坂仮皇居に直訴を企てたが、まもなく鎮圧され、この事件で反乱軍の53人が銃殺刑に処せられた。

北桔橋
現在の北拮橋門


■北拮橋門

もともとは枡形門形式であったが、現在は高麗門だけが復元されている。
拮橋は刎橋、引橋ともいわれ、有事には橋をはねあげて、敵を遮断できる構造になっていた。一ノ門には拮橋の金具が残っている。 北拮橋門を出た所からみる景色は、江戸城中でもっとも重厚壮大で曲折の変化に富む、美しい石垣を見ることができる。

内桜田門

■内桜田門(桔梗門)

かって瓦などに桔梗の紋が施されていたことから、別名「桔梗門」とも呼ばれる。現在は宮内庁の関係者や皇宮警察官専用の出入り口となっている。一般の方は、予め園内見学の許可を取ってある場合のみ利用できる。
皇居一般参観申込要領はこちら

外桜田門
外桜田門(高麗門)
桜田櫓門
外桜田門(櫓門)

■外桜田門

内桜田門と外桜田門がある。通常「桜田門」という場合はこの外桜田門のこと指す。枡形門の遺構がよく保存されており、西からの敵を想定した城門。
雪の降りしきる万延元年(1860)3月3日、大老井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺された。井伊家の上屋敷は現在の尾崎記念公園のあたりで、桜田門のすぐ近くにあった。 水戸浪士たちに襲撃されたところは、現在の警視庁前あたりである。幕府大老の暗殺というショッキングなニュースは幕府の権威を大きく失墜することとなった。この事件を契機にコ川幕府の終焉へ歩みだすこととなつた。

坂下門

■坂下門

西の丸の坂下にあったので、この名がついた。
右手の濠が蛤濠(はまぐりぼり)。木立の向こうに清楚な富士見櫓が見える。老中安藤対馬守は、桜田門外の変以降、幕府の権威が失墜する中、京都の朝廷と江戸幕府との公武合体政策をとり、皇女和宮の降嫁を推進した。その為文久2年(1862)には、勤皇派の水戸浪士に坂下門外で襲われ、一命は取り留めたもの、老中は罷免された。この事件を「坂下門外の変」という。襲撃者は全員その場で刺殺された。 桜田門外の変が起きた1年後のことである。

和田倉門跡

■和田蔵門跡

家康入府前は、この門があったあたりは日比谷入江と呼ばれる海が広がっていた。西の丸防備のため造られた門。 和田倉門のワタは「海」、クラ「蔵地」からきている。 嘉永6年(1629)に浅野長晟(ながあきら)と加藤忠広が、和田倉門から桜田門までの石垣を築いた。
和田倉門の枡形は元和6年(1620)に設置されたが、関東大震災で大被害を受け、現在は木製の橋のみ復元されている。門内には会津藩の松平肥後守容保の上屋敷があった。

hanzoumon
現在の半蔵門


■半蔵門

付近には、伊賀忍者・服部半蔵の組屋敷があったことが名前の由来。 江戸時代、山王祭の山車は、半蔵門から江戸城内に入り、将軍上覧の栄誉に浴した後、竹橋門から城外に出た。歌川広重の江戸名所百景にも描かれている。

本丸跡
大奥側より中奥・表方面望む
本丸跡
現在の本丸御殿跡
江戸城見取り図
現在の皇居見取図
江戸城屏風
江戸図屏風

■本丸跡

本丸御殿は慶長11年(1606)新造され、2度の改築を経て、寛永17年(1640)に将軍居館として完成した。以後焼失と再建を繰り返したが、殿舎の規模、構造はほぼ寛永17年(1640)のものを踏襲している。
弘化2年(1845)造営の御殿の費用は175万4345両を要し、総建坪は1万1373坪であった。文久3年(1863)焼失後は再建されることはなかった。
御殿は武家住宅の典型ある書院造になっており、内部は表・中奥・大奥の3つに区別される。表は将軍への謁見その他の公式の儀式行う広間と、日常諸役人の詰所や政務をとる処座敷からなり、幕府の中央政庁としての役割を持っていた。 広間のなかでもっとも重要な部屋であった大広間はこの標石のあたりで、400畳以上の広さがあった。 中奥は、将軍が日常起居したり政務をみたりする公邸である。芝生の広がる中ほどの、大きな1本松のあたりが中奥の区域であった。 なお、現在の本丸休憩所に付近に、将軍の朝夕の食事を整える大台所があった。 本丸御殿は白木造りだが、大台所だけは朱塗りあったという。 大奥:中奥の北側、天守台前の庭園から書陵部庁舎の区域にかけて、広大な大奥の建物があった。弘化2年(1845)造営の御殿では、表と中奥を合わせて4688坪(約1万8194u)に対して、大奥は6318坪(約2万4520u)あった。 中奥とは銅塀で厳重に仕切られており、御錠(おじょう)口(ぐち)・御鈴(ごすず)廊下(ろうか)のみでつながっていた。 大奥の内部は御殿(ごてん)向(むけ)・御広敷(おひろしき)向(むき)・長局に分けられていた。 御殿向(ごてんむき)は御台所(正室)の御殿、将軍が大奥に泊まる時の寝所などもあった。 御広敷向(おひろしきむき)は大奥の事務処理にあたる役人が勤務する役所で、大奥に出入りものの玄関であった。現在の汐見坂の前あたりに位置していた。 長局(ながつぼね)は大奥女中の生活する居住部分で、文字通り細長い廊下に沿って部屋が並んでいた。天守台の東側の書陵部から楽部の庁舎にかけての地域にあたる。最盛時には数百人の女中が住んでいたという。

松乃大廊下跡

■松之大廊下跡

大広間の奥にある広い中庭に沿って鉤の手にまがって白書院(将軍との対面所)に至る廊下が松之大廊下である。この大廊下の西側には御三家などがつめた部屋があり、その部屋と廊下の仕切りの障子や壁に松と群れ遊ぶ千鳥が描かれていたのでこの名がついた。
元禄14年(1701)勅使饗応役播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家肝煎の吉良上野介義央に切りかかり、「忠臣蔵」の発端となった場所として有名である。

富士見三重櫓

■富士見三重櫓

慶長11年(1606)本丸造営工事の際に加藤清正によって櫓台地域の石垣が築かれ、櫓もこの時創建されたと思われる。本丸の南隅にあたるこの位置は、太田道灌時代の「含(がん)雪(せっ)斎(さい)」(富士の白雪を眺める部屋)あるいは、「ふし見やくら」があったともいわれるところである。天守台につぐ高所である。(海抜21m) 明暦の大火で焼失後、万治2年(1659)三重櫓として再建され現在に至っている。 優美な姿はどこから見ても同じ形に見えるため、俗に八方正面の櫓とも呼ばれた。 江戸城遺構の内三重櫓としては唯一のものである。 江戸城のほぼ中央部にあったこの櫓が、天守閣の役割を果たした。 慶応3年(1868)5月、上野彰義隊との戦いの際、新政府軍の指揮官大村益次郎は、この櫓から上野寛永寺の堂塔が燃えているのを見て勝利を確信したという。

巽櫓

■桜田巽櫓(たつみやぐら)

本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にある優美な城櫓。 白い壁と石垣、重厚な屋根瓦が緑に映え、水面に映る姿が何とも美しい。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」 「桜田二重櫓」ともいわれる。

石室

■石室

この石室の用途は明らかではないが、中奥と大奥との境の中奥側の上御納戸の脇にあったので、将軍の衣服や装束・調度などを、火災などの非常の際に収めた収蔵庫ではないかと考えられている。

大番所

■大番所

中ノ門を過ぎると、それまで微妙であった勾配が急に増し、本丸御殿に向かう道は急坂になる。右手にある大番所は身分の高い武士たちが詰めて、監視をしていた。

百人番所

■百人番所

大手三ノ門と中ノ門の間にある、江戸城内最大の検問所である。 若年寄支配で鉄砲百人組(単に百人組ともいう)が警備していた。 百人組には甲賀組・根来組・伊賀組・二十五騎組の4組があり、同心100人ずつが所属して昼夜交替で警備していたのでこの名称がついたという。

同心番所

■同心番所

ここには警護の武士たちが詰めており。本丸御殿に向かう人たちに目を光らせていた。警備担当は現在の大久保辺りに住む、軽輩の武士たちであった。

富士見多聞櫓

■本丸数寄屋前多聞櫓

本丸の多聞は15棟あった中で唯一現存するものである。中奥にあって将軍が日常政務をとり、寝室ともしていた御休息之間の前に位置していたので、江戸城では御休息所前多聞といわれていた。

天守台
現在の天守台
江戸城天守閣
焼失前の天守閣図

■天守台

本丸最奥部で、本丸台地の一番高いところ(標高25m)に位置していた。 慶長11年(1606)に天守台が、翌年には五層の天守閣が建造された。場所は大奥と中奥との境辺りであった。 その後、元和8年(1622)本丸の大改造に伴って現在地に改築された。 寛永14年(1637)と承応2年(1653)と修築を重ねた。 寛永時の天守閣は南側に小天守台を伴う、天守台の石垣の高さは13.8m(京間7間)天守台の上には南北39.2m×東西35mの広さがあった。
外観5層、内部は穴蔵を含めて6階の天守閣が建てられた。天守閣は石垣の上から最上層の箱棟上端まで44.8m(地上からは58.6m)さらにこの上に金色の鯱が輝いていた。屋根は銅瓦葺き、壁面は銅版張りの上に瀝青(れきせい)塗りの方法で黒く着色されていたと思われる。明暦の大火で(1657)でこの天守閣が焼失すると、同年前田綱紀に新しい天守台の築造が命ぜられた。そこで焼けた伊豆石を全部御影石に取り替えた。現存する高さ11mの天守台はこの時のものである。天守閣の造営は、将軍補佐役保科正之の意見で当分延期となり、その後ついに再建されることなく現在に至っている。天守台の入り口の横に「金(きん)明水(めいすい)」と名付けられた籠城の際の命綱となる井戸がある。

大奥跡井戸
大奥の賄所か東長局調跡に残る井戸

■大奥井戸跡

大奥は御台所(正室)や側室、生母、奥女中たちが生活する場であり、将軍の私邸であった。江戸城本丸の総建坪は弘化2年(1845)のころ、1万1千373坪(約37,530u)の内大奥の占める割合は6千318坪(約20,850u)で表と中奥を合わせた4千688坪(約15,470u)よりも広い。 大奥は御台所が住む「御殿」奥女中たちの住む「長局」そして幕府の男性役人が勤務する「御広敷」の三つに分かれていた。御広敷の中でも広いのは調理場で、井戸つきの板の間で、200坪(約660u)あった。かまどは6つあり、それで煮炊きをした。調理場で働く男たちは下男を含め約140名ほどいた。

二の丸庭園

■二の丸庭園

江戸時代の絵図面の基づいて、小堀遠州作とされる、回遊式庭園を復元。 園内には水生・陸生の植物が多数植えられ、季節ごとに美しい花を咲かせる。

三の丸尚古館

■三の丸尚蔵館

明治天皇の宮殿造営に伴い、かって江戸城の中枢であつた場所は皇室付属庭園となった。同館は皇室から国に寄贈された歴代の書画、工芸品などがテーマを替え展示されている。
入館は無料。

本丸休憩所

■本丸休憩所

売店と無料休憩所とトイレがある。
皇室関係のグッズを販売している。

二の丸展望台
展望台からの眺め

■二の丸展望台
本丸休憩所のすぐ裏にあり、徒歩2〜3分
白鳥掘り、二の丸庭園を見下ろすことができる。

 

page top