東京散歩「江戸史跡散歩」 |
中高年にお勧め。散歩を通して江戸の歴史を知ることが出来ます。古地図を片手に、さあ江戸史跡散歩に出掛けましょう! |
東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸東京の神社を歩く)
大鳥居 日枝神社 |
文明10年(1478)、太田道灌が江戸城築城の際に、川越から勧請し、城内梅林坂近くに山王権現を祀った。徳川家康は、これを紅葉山に移し、徳川家の産土神として信仰した。江戸城拡張の際、庶民も参拝できるよう半蔵門外に移された。明暦の大火後、4代将軍家綱は、現在地に社殿の建設を命じ、万治2年(1659)壮大な社殿が完成した。 日吉(江戸)山王権現と称し、歴代将軍の崇敬を集めた。又山王権現祭は“天下祭り”と言われ、幕府公認の、江戸の華であった。「山王祭」は、6月15日に行われ、山車、ねり物、花屋台が賑やかに繰り出し、半蔵門から江戸城に入り、将軍は吹上御苑で見物をした。 |
<住所> |
神田神社山門 神田神社本殿 |
祭神は、大国主命(大黒さま)と少彦命(えびすさま)と平将門を祀る。 江戸時代初めは、将門首塚の場所(大手町1丁目1番1号)にあったが、江戸城の拡張で、現在地に移された。平将門は朝廷に対する反乱者であったため、長期間、祭神として公にされなかった。寛永3年(1626)、徳川幕府支配下で、朝廷から許され、晴れて祭神となった。江戸鎮守府の格式を有し、将軍家の庇護を受け栄えた。 明治維新で天皇が権力を握ると、再び弾圧され、祭神も少彦名命とされた。 社格も下げられ、将門もひそかに祀られたやがて社格も元に戻った。 2年に1度、5月に盛大に行われる「神田祭り」は「山王祭り」と並んで江戸二大祭りの一つである。 |
<住所> |
浅草神社鳥居 浅草神社 |
三社明神、あるいは三社様と親しみをこめて呼ばれている浅草の総鎮守。
草創は平安時代後期または鎌倉時代と言われている古社・
三社様は浅草寺の本尊である、聖観音像を引き上げた、檜前浜成、檜前竹成と土師中知の三人を神として祀った。江戸時代は徳川家康の東照大権現を合祀したことから三社権現と呼ばれるようになった。明治元年(1868)三社明神と改め、明治6年(1874)には浅草神社と改称した。拝殿・幣殿・本殿の朱塗りの権現造りの社殿は、慶安2年(1649)3代将軍家光が建てたもので、関東大震災、東京大空襲にも耐え、奇跡的に残ったもので、国の重要文化財にしてされている。 |
<住所> |
大鳥居 富岡八幡宮本殿 伊能忠敬像 |
江戸最大の八幡宮。応神天皇を主神として、天照大神・天児屋根命・大雀命・武内宿祢命・日本武尊・寵大神を配祀している。 寛永元年(1624)当時永代島と呼ばれた小島に京の公卿出身で菅原道真の子孫と言われる僧侶長盛(ちょうせい)が、京都から持ってきた八幡神像を奉安したのが始まりと言われる。社殿の完成後、長盛は別当(管理者)として、ここに住み、後に京都仁和寺から、永代寺という寺号を与えられた。神社の周囲20万平方メートルを埋め立て、これが後の深川富岡町、深川門前町などの街並みとなった。この埋立地を町屋に貸し、 地代を神社の経費に充てたという。本殿はたびたび火災に会い、江戸期に再建されたものも、関東大震災そして東京大空襲で焼け、現在の建物は昭和32年8月に落成した。 3年に1度(8月15日)本祭りが催される「深川八幡まつり」は江戸三大祭りの一つで、江戸時代から多くの人を集めた。50余台の神輿に水を掛けながら練り歩く、連合渡御は勇壮無比で、あでやかな辰巳芸者の手古舞や、意気な鳶頭衆の木遣りが祭り気分を盛り上げる。境内にある伊能忠敬像は、忠敬が測量の旅に出る際、必ず富岡八幡宮をお参りしていたということを記念して建てた。 |
<住所> |
山門 根津神社本殿 |
もともとは甲府中納言、コ川綱重(5代将軍綱吉の兄)の屋敷であった。 ここで、綱豊(後の6代将軍家宣)が生まれた。そこで、北にある団子坂上にある根津神社が産土神(幼児の守護神)となった。男子がいない綱吉は、家宣を後継ぎに定め 甲府屋敷に根津神社を移し、宝永3年(1706)ここに壮麗な根津神社を建てた。 権現造りという、本殿と拝殿を結ぶ幣殿を一つの屋根で結んだ独特の建築様式で、唐門、楼門を含め社殿はすべて重要文化財である。 根津神社の祭りは、壮大な“天下祭り”として知られている。 また、ここは甲府屋敷時代に上州から移植されたつつじの名所である。 |
<住所> |
上野東照宮 青銅灯籠 |
徳川家康を祀った社。3代将軍家光が造営した当時の建築が現存している。 石造神明鳥居から参道へずらりと並ぶ50基の青銅灯籠、唐門、透塀、拝殿、幣殿、本殿などはすべて国の重要文化財。元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿河で死去し、久能山に葬られた。元和4年(1618)に日光山に移葬され、日光東照宮が造られた。この年、浅草寺境内にも東照宮が造られ、御三家、大名、旗本は、毎月17日、浅草東照宮に参拝するのが恒例となった。 一方藤堂高虎は家康への敬心厚く、寛永4年(1627)に屋敷内に上野東照宮を勧請していた。寛永19年(1641)2月に浅草東照宮が焼失したため、浅草に代わり上野東照宮に、大名諸侯が参拝することになった。後光明天皇の正保3年(1646)には、正式に東照宮の宮号を受け、慶安3年(1650)には、三代将軍家光が社殿の造り替えを命じ、翌慶安4年(1651)4月完成したのが現在の東照宮である。 参道入り口の明神大鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋城主・酒井忠世が奉納したものである。 |
<住所> |
鳥居 湯島天神本殿 |
14世紀の南北朝時代に、老松の根元に菅原道真を祀ったのが縁起という。 文明10年(1478)、太田道灌が社殿を再興した 徳川家康が江戸入府の際に神領を寄進し、神田明神に次ぐ、草創の神として信仰された。 また、江戸の三富(幕府公認の富くじ三か所)の一つである 江戸の川柳に「突く日には湯島わくほど人がでる。」と歌われた。 その為、迷子も多く出た、本殿左側にある石柱「奇縁氷人石」は、今でいう、尋ね人探しの伝言板。探している人は、右側に人相書きを、教える人は左側に情報書いて貼った。 又、泉鏡花原作の「婦系図」(おんなけいず)の早瀬主税と芸者蔦吉の別れの場所として有名である。 |
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養和4年(1185)壇ノ浦の戦いで滅びた平家一門が安徳天皇、建礼門院らの霊を祀るため久留米に建立したといわれ、700年以上の歴史を持つ由緒ある神社である。 本来は水難除けの神として船乗りの守護神であったが、現在では安産に後利益がある神社として有名。毎月5日の戌の日には、安産祈願の人たちで長蛇の列ができる。 江戸時代は久留米藩の三田赤羽橋江戸屋敷内に分社したのが始まりである。 総本社は福岡県久留米にある。現在地の移ったのは、明治5年のことである。 関東大震災により社殿を焼失。現在の権現造りの社殿は昭和42年に建てられた。 |
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もとは元赤坂にあった紀州藩邸の産土神で、江戸七氷川社に一つといわれた。 紀州藩主から8代将軍になったコ川吉宗が深く崇敬し、社領200石を寄進してこの地に移転させ、享保15年(1730)に社殿を建立した。 元禄のころは浅野土佐守の屋敷であった。 浅野内匠頭の妻(搖泉院)は内匠頭切腹、御家断絶後は実家であるこの屋敷に身を寄せていた。又大石内蔵助が討ち入り前、最後の挨拶に来たのもこの場所である。 |
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愛宕神社本殿 男坂(86段) |
コ川家康より火伏の神として祀られる。 |
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鳥居 芝大神宮本殿 |
都内有数の古社。平安時代の中ごろ伊勢神宮の分霊を祀ったと伝えられる。 |
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77段の急な石段 市谷亀ヶ岡八幡神社本殿 |
太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を番町に勧請した。 その後、徳川時代に番町が旗本屋敷になったため、寛永13年(1636)に現在地に移転した。77段の急な石段を上りつめると境内で、市谷台地の先端にあり眺めがよい。 あたり一帯は掛茶屋や芝居小屋などが立ち並んだ門前町であった。 江戸九カ所のひとつであった時の鐘があった寺宝には道灌奉納の軍配団扇がある。 石段途中の神明型銅鳥居は区内でも珍しい。 額の「八幡宮」は姫路藩主酒井雅楽頭忠道の筆による。 |
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関東稲荷神社の総元締めの神社。 |
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太鼓橋 亀戸天満宮本殿 |
寛文元年(1661)、筑前国(福岡県)大宰府天満宮の神職大鳥居信祐が神木飛梅の木で彫刻した菅原道真の像をもって江戸に来て、いまの亀戸の元天神塚にあった小祠にこの像を祀った。そこが幕府に収用されたため、代地を願い今の宮地が与えられた。 富岡八幡宮と並び有名な神社で、江戸の観光名所として、多くの人で賑わっていた。 毎年1月24・25日に「うそ替神事」が行われる。これは、前年に受けた檜の一刀彫のウソ鳥を納め、新しいウソ鳥を求めると、いままでの不幸をウソにし幸にトリ替えるという行事で、毎年大変な人気を呼んでいる。 |
<住所> |
四霊獣が飾り付けられた銅鳥居 金刀比羅宮本殿 |
万治3年(1660)、丸亀藩主の京極高和が、四国讃岐の金刀比羅宮から三田の藩邸内に勧請したのが始め、延宝7年(1679)に藩邸の移転と共に現在地へ移った。藩邸内のため毎月10日に限って江戸庶民に開放した。 それ以来今日まで毎月10日に縁日が立つ。 邸内社のため氏子を持たず、運営は参拝者からの賽銭や寄進に頼っていた。 信者から寄進された立派な銅鳥居がある。 左の円柱には青竜と玄武、右の円柱には朱雀と白虎の四霊獣が飾り付けられている。 鳥居には文政4年(1821)10月の銘が刻まれている。 |
<住所> |
平川天満宮の銅鳥居 平川天満宮鳥居 |
太田道灌が文明10年(1478)、江戸城内梅林坂に天神を祀った。その後、徳川家康が江戸を入府し、江戸城築城のため、慶長11年(1606)に現在地に移した。 江戸時代には、寺子屋の生徒が学問も神様、菅原道真公参りにやってきた。 入り口の銅鳥居は、天保15年(1844)氏子の町内から奉納されたもの。 千代田区内で最も古い鳥居である。また、境内には享和元年(1801)建立の狛犬などがある。 |
<住所> |
住吉神社鳥居 住吉神社本殿 |
正保3年(1646)徳川家康が大阪の佃村から漁師を呼び寄せた際、大阪の住吉神社の分霊を勧請し建立されたという。当時、神社の前が輸送船の港であったこともあり、海運業界や問屋筋の信仰が厚かった4年に1度行われる住吉神社例大祭あ広重の浮世絵にも描かれている。神社から獅子頭を担いで町へ出るときに、獅子の鼻づらに触れると縁起がよいと言われ、見物客たちが我先にと飛びつく。現在中央区区民有形文化財に指定されている。また境内の鳥居に掲げられている縦109cm横78cmの陶製の扁額が全国でもめずらしい
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<住所> |
今戸神社鳥居 今戸神社本殿 |
もとは、今戸八幡と呼ばれていた。源頼義が安倍貞任、宗任を征伐するため、京都の石清水八幡宮を鎌倉鶴岡とここ今戸に勧請したといわれる古い神社。 境内には、沖田総司終焉の地の碑がある。 この地にあった幕府奥医師・松本良順の私宅で、沖田総司は結核のため亡くなったゆかりによる。(総司は千駄ヶ谷で亡くなったという説もある。) 現在の祭神はイザナギ、イザナミの夫婦神なので「縁結びの神」として参拝する人が多い。社務所で売っている今戸焼の招き猫の人形は若い人に人気がある。 |
<住所> |
牛嶋神社 撫で牛 |
本所の総鎮守で、素戔之雄命・天之穂日命・四品貞辰親王の三柱を祀り、墨田区内でもっとも古い神社。貞観2年(860)に慈覚大師の勧進と伝えている。旧称を牛御前社といい、かっては弘福寺の裏あたりにあった。関東大震災後の墨田堤の拡張によって昭和7年に現在地へ移転した。社殿右手の撫で牛は文政8年(1825)奉納の青銅製。 病んでいるところを撫でると快癒するとして、今も人気が高い |
<住所>
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大鳥居 下谷神社本殿 |
天平2年(720)僧行基が京都の藤森稲荷を勧請し、下谷稲荷と称したのがはじめと言われている。江戸時代から下谷あたりの鎮守社として崇拝されてきた。寛永4年(1627)上野の山より東坂下に、延宝8年(1680)に旧広徳寺前に、昭和3年(1928)に現在地に移った。現在の社殿は昭和9年(1934)4月建造のもので、拝殿の天井絵は横山大観筆の墨絵雲竜図である。戦後復興した千貫神輿は、その大きさで鳥越神社の神輿とともに有名である。祭礼は5月11日である。 江戸時代は7代将軍家継の生母月光院はこの神社の氏子であった。家継は生来虚弱体質であったため、下谷神社に将軍の健康を祈願し、正徳4年(1714)の御輿を奉納した。 しかし、この御輿は関東大震災で焼失した。 |
住所:台東区東上野3-29 |