江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸の大名屋敷跡を歩く)

田安門
現北の丸公園内

◆田安徳川家上屋敷跡 (御三卿)

上屋敷坪数:13,841坪
第8代将軍・コ川吉宗の次男宗武を家祖とし、コ川将軍家に後継ぎが無い時は、他の御三卿と共に後継ぎを出す資格を有する。 家格はコ川御三家の次、所領は10万石。家名の由来は、同地が田安明神の旧地であったところからこの名付けられた。

 
一橋邸跡
現気象庁

◆一橋徳川家上屋敷跡 (御三卿)

上屋敷坪数:17,888坪
第8代将軍・コ川吉宗の4男宗尹を家祖とし、家格はコ川御三家に次、 所領は10万石。家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内にあったためこう呼ばれた。 一橋家は独立した大名ではなく、コ川将軍家の家族として認識されていた。

 
清水御門
現北の丸公園内清水門

◆清水徳川家上屋敷跡 (御三卿)

上屋敷坪数:14,150坪
第9第将軍・徳川家重の2男重好を家祖とし、コ川将軍家に後継ぎが無い時は、他の御三卿と共に後継ぎを出す資格を有する。家格は御三家の次、 所領あ10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内あつたため呼ばれた。

 
尾張藩上屋敷跡
現防衛省

◆尾張藩上屋敷跡(御三家)

上屋敷坪数:75,205坪
関ヶ原の戦いの戦功により徳川家康の4男・松平忠吉が入封するが、嗣子がなく死去したため、9男である忠吉の弟の義直が後を継ぐ。 石高は当初は47万2344石であったが、その後加増し61万9500石となった。

 
紀州藩上屋敷跡
旧グランドプリンス赤坂

◆紀州藩上屋敷跡(御三家)

上屋敷坪数:24,548坪
徳川家康の10男・コ川頼宣を家祖とし、頼宣は当初常陸国主家として設立、後に駿府藩をへて、紀州藩に落ち着く。石高55万5,000石。 第5代藩主・吉宗と第13代藩主・慶福はそれぞれ、第8代と第14代将軍となった。御三家の内将軍を輩出した唯一の家である。

 
小石川後楽園
現小石川後楽園

◆水戸徳川家上屋敷跡(御三家)

上屋敷坪数:101,831坪
コ川家康の11男頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。 石高は35万石。尾張藩、紀州藩は大納言であったが、水戸藩は中納言であった。水戸藩は将軍の補佐役と目され、参勤交代をせず、江戸定府であった。また水戸学を奉じる勤皇家だあり、「もしコ川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇することなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。

 
彦根藩上屋敷跡
現憲政記念館

◆彦根藩上屋敷跡(井伊家)

上屋敷坪数:19,815坪
コ川四天王の一人、井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により、石田光成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩するが戦傷がもとで亡くなる。嫡男の直継が相続し、彦根に城を築くが、病弱の為、弟の直孝が2代藩主と継ぐ。幕末には井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約を天皇の勅許得ず調印、それが安政の大獄へと繋がり、万延元年(1860)桜田門外の変で暗殺をされた。

 
薩摩藩上屋敷跡
現NEC本社

◆薩摩藩中屋敷跡(島津家)

中屋敷坪数:21,785坪
島津氏は鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3か国の守護を任ぜられて以来、この地方の守護大名・戦国大名であった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に付くが、石田光成の指示には従わず、戦線を離脱した。その為、コ川四天王の一人井伊直正の取り成しで本領を安堵された。石高は77万石。 外様大名でコ川将軍家に正室を輩出したのは薩摩藩だけであった。

 
長州藩上屋敷跡
現日比谷公園の一部

◆長州藩上屋敷跡(毛利家)

上屋敷坪数:17,170坪
毛利輝元は豊臣秀吉い仕え、安芸、 周防、長門、備中半国、備後、 伯耆半国、出雲、石見、隠岐の 120万5000石を拝領していた。 関ヶ原の戦いで石田光成の西軍の 総大将に担ぎ出された。そのため 西軍敗北後、その責任をとらされ 120万石から29万8480石に減俸され 周防と長門の2国のみとなった。 こうした辛酸を舐めたことから、幕府への恨みこそあれ、感謝の気持ちはあまりなかった。それが幕末の倒幕運動にも繋がっていった。

 
土佐藩上屋敷跡
現東京国際フォーラム

◆土佐藩上屋敷跡(山内家)

上屋敷坪数:7,355坪
土佐藩上屋敷跡は現在の東京国際フォーラムあたりである。山内容堂は幕末の政局の中心で幅広く活躍した人物である。 その容堂が江戸での生活の拠点となったのが、鍛冶橋にあった 土佐藩上屋敷である。 幕府から藩邸地として下賜されたのは、元禄初年のことであった。 以来幕末から明治4年7月8日の政府令によって還納されるまので間、 土佐藩上屋敷であった。

 
福井藩上屋敷跡
現東京国際郵便局

◆福井藩上屋敷跡(松平家)

上屋敷坪数:12,779坪
松平春嶽は田安家に生まれ、天保9年(1838)に越前の松平家に養子として入った。11歳で16代藩主となった。以後安政5年(1858)隠居するまで藩政の刷新に尽力した。春嶽は人材登用に積極的に進め、橋本左内や横井小楠など多くの優秀な人物をブレーンに抜擢、大きな成功を収めた。江戸での生活の拠点となったのが、常盤橋にあった上屋敷であった。 福井藩は寛永10年(1633)辰ノ口北角に上屋敷を拝領、さらに明暦3年(1657)3月に霊岸島(明暦の大火後)に上屋敷を移した。正徳3年(1713)に常盤橋に上屋敷を拝領し、維新まで続いた。勝海舟は龍馬に海軍塾を神戸に設立する資金調達の為、福井の春嶽を訪ね、5千両の金を借り受けることに成功した。現在の所在地はNTT関東支社や東京国際郵便局がのどの社屋がたつ一帯である。

 
会津藩上屋敷跡
皇居前広場

◆会津藩上屋敷跡(松平家)

上屋敷坪数:9,150坪
2代将軍徳川秀忠の子、保科正之が23万石で入封。幕末までに内高40万石を突破していた。保科正之は 3代将軍家光の異母弟であった。正之は武田家家臣の養父に義理立て松平の姓に改姓することを遠慮していた。松平の姓を名乗ったのは3代正容(まさかた)の時に松平の姓を名乗るようになった。幕末の松平容保は美濃国高須藩から養子に入った。 京都守護職となり、京の治安を守ったが、長州藩からは仇敵と見られ、戊辰戦争では新政府軍相手に最後まで戦った。白虎隊等の悲劇も生まれた。

 
津藩上屋敷跡
和泉小学校

◆津藩上屋敷跡(藤堂家)

上屋敷坪数:14,568坪
戦国時代は安濃津と呼ばれていた。藤堂高虎が関ヶ原の合戦で徳川家康につき 伊予今治藩10万石を与えられる。その後、慶長13年富田信高が伊予宇和島に移封され、藤堂高虎が10万石から22万石に加増され入る。 藤堂高虎は、外様でありながら、徳川家康から絶大なる信頼を受け、江戸城の普請などもあり、早くから別格譜代の厚遇を受ける。慶長19年からの大坂の陣でも家康側に与して戦功を上げ、最終的には32万3千石を領する大大名となった。 特に、藤堂高虎は城造りの名主と言われている。

 
加賀藩上屋敷跡
現東大赤門

◆加賀藩上屋敷跡(前田家)

上屋敷坪数:103,882坪
前田利家時代、加賀と越中3国100万石を所領をした。関ヶ原の戦いで利長は東軍につき、弟利政は西軍に付いた。西軍に付いた利政の所領は没収され、東軍についた利長に授けられた。その結果119万石の大大名となった。現在の赤門は徳川家斉の第21女・溶姫が第12代藩主前田斉泰(なりやす)に御輿入れの際に建造された。赤門は将軍家から特に許された場合のみ建造することができた。

 
小田原藩上屋敷跡
現旧芝離宮恩賜公園

◆小田原藩上屋敷(大久保家)

上屋敷坪数:10,011坪
延宝6年(1678)小田原藩・大久保忠朝が老中の時、第4代将軍・コ川家綱より拝領した。忠朝は屋敷を建てるにあたり、小田原から庭師を呼び。庭園を造った。回遊式泉水庭園、庭園は「楽濤園」と呼ばれていた。幕末頃には紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、明治8年に宮内省が買い上げ、翌明治9年に芝離宮となりました。

 
高遠藩下屋敷跡
現新宿御苑

◆高遠藩下屋敷跡(内藤家)

下屋敷坪数:66,815坪
天正19年(1591)徳川家康は内藤清成に、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認め、馬で回れるだけの土地を与えると言い、その結果、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保まで及ぶ広大な土地を賜った。その後、上屋敷を神田小川町に賜り、新宿の方は下屋敷となった。下屋敷は、地域の住民と共に楽しむ憩いの庭として親しまれていた。元禄11年(1698)幕府は広大な下屋敷の一部を返還させ、町屋とともに馬継ぎの施設を設け、 宿駅とした。内藤家の屋敷跡に新設されたため「内藤新宿」と呼ばれるようになった。

 
松代藩上屋敷跡
経済産業省別館

◆松代藩上屋敷跡(真田家)

上屋敷坪数:4,958坪
元和8年(1622)信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した。明暦4年(1658)
第3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立し、以後10万石として幕末まで続く。真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること。信之の妻[小松姫]が徳川家康の養女(本多忠勝の娘)であったことなど理由による。また8代藩主幸貫は老中も務め、以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。

 
大和郡山藩下屋敷
現六義園

◆郡山藩下屋敷跡(柳沢家)

下屋敷坪数:40,628坪
元禄8年(1695)側用人、柳沢吉保は五代将軍・コ川綱吉より下屋敷として与えられた。吉保は自ら庭園の設計し、指揮し、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造りました。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が起用した和歌の「六体」に由来します。

 
佐賀藩上屋敷跡
現日比谷公園内

◆佐賀藩上屋敷跡(鍋島家)

上屋敷坪数:10,969坪
鍋島氏はもと龍造寺氏の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。 石高35万石であったが、3支藩、鍋島4庶流家と龍造寺4分家の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。幕末の鍋島直正(閑叟)は藩政改革や西洋技術の導入を行い。役人の大リストラをない5分の1に削減し、農民の保護すると同時に、陶器、茶、石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政を立て直した。

 
水天宮
現水天宮

◆久留米藩上屋敷跡(有馬家)

上屋敷坪数:24,925坪
関ヶ原の戦いの後、筑後一国32万5千石は田中吉政の所領となった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には城代が置かれた。二代目田中忠政が病没し、無嗣子のため改易となった。その後は、所領は分割され、久留米を含む21万石は有馬豊氏が丹波国福知山藩8万石から13万石加増を受けて入封した。 初代藩主・豊氏は入封後、久留米城を改修し、城下町を整備した。上屋敷は三田赤羽橋にあった。水天宮もその屋敷内あったものを 明治期に現在地に移した。

 
有栖川記念公園
現有栖川記念公園

◆盛岡藩下屋敷跡

盛岡藩下屋敷坪数:28,000坪
天正18年(1590)南部信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、所領の安堵状と朱印状を得て、10カ郡が許された。慶長5年(1600)には徳川家康からからも安堵を受け、表高10万石の大名として認められた。 南部家中興の祖と呼ばれる、初代盛岡藩主・南部信直は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。度重なる水害をへて、」盛岡城が40年の歳月を掛けて完成した。 この年、盛岡が正式な南部氏の城下町となった。 寛永12年(1635)朝鮮通信使を巡る外交問題で対馬府中藩から規伯玄方を南部家がお預かりとなり、藩主は玄方を茶の湯や漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸との文化の取り入れを行った。これが後の地場工芸の南部鉄器や作庭、 菓子創作などに影響し、盛岡における芸術文化の土壌を生み出した。 幕末には、奥州列藩同盟に参加し、官軍と戦ったため、朝敵となり敗戦し、盛岡20万石から白石城に13万石で減転封となった。戊辰戦争で国替えを命じられたのは会津藩と盛岡藩の2藩のみである。

 
清澄庭園
現清澄庭園

◆関宿藩下屋敷跡

下屋敷坪数:12,932坪
享保年間(1716〜1736)下総国関宿藩主・久世下総国関宿藩主・久世大和守の下屋敷であった。 泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。 この地の一部は江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡でもありました。

 
旧安田庭園
旧安田庭園

◆宮津藩下屋敷跡

宮津藩下屋敷坪数:4,529坪
慶長5年(1600)信濃飯田城より京極高知が田辺城に入り、丹後一国を領した。
後に嫡男の高広を宮津藩に、三男の高三を田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の高通を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させた、高広の子高国は寛政6年(1666)、幕府に悪政・一族不和の不行跡を咎められ、改易となった。その後、幕府直轄領となり、永井家、阿部家、奥平家、青山家と次々に入れ替わり、最後に遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入り幕末まで続いた。家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子、資俊の代より松平姓が許された。 当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢を務めた。

 
六本木ヒルズ
現六本木ヒルズ

◆長府藩上屋敷跡

上屋敷坪数:11,410坪
長州藩の支藩で、長門府中藩とも言う。藩主は毛利秀元。天正20年(1592)朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって毛利輝元の養嗣子となることが承認された。但し、後日の紛糾を避ける為 「輝元に男子が生まれた場合には分家にする事」という条件であった。 輝元に嫡男な誕生し、日で秀元は長門一国と安芸国と周防国の一部の17万石で立藩した。幕末には宗藩である長州藩が、下関を直轄領としようとしたため対立したが、後に和解し、戊辰戦争は長州藩と共に戦った。

 
汐留シオサイト
現汐留シオサイト

◆仙台藩上屋敷跡

上屋敷坪数:25,819坪
仙台藩は伊達政宗を初代で立藩した。表石高62万石。実高は支藩、一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。下屋敷は南麻布1丁目付近(仙台坂付近)。将軍家より松平姓を許された。江戸中期以降は、直属家臣約1万名、陪臣を合わせて、約3万5千名を擁した。

 
岡山藩上屋敷
丸ビル郵船ビル

◆岡山藩上屋敷跡

上屋敷坪数:8,317坪
岡山城を築城したのは宇喜多秀家であるが、関ヶ原の戦いで西軍の主力となったため改易となり八丈島に流された。その後、西軍から寝返り勝敗に要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石の大名となった。慶長7年(1602)秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。 代わって、慶長8年(1603)姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封した。慶長18年(1613)には10万石に加増を受け、38万石となった。 忠継は無嗣子で没し、弟の忠雄が淡路国から31万5千石で入封した。 忠雄の没後、嫡男・光仲が幼少の為、山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系が幕末まで続いた。

 
帝国ホテル
現帝国ホテル

◆白河藩上屋敷跡

上屋敷坪数:7,836坪
白河の地は古代において白河の関という関所が設けられ、奥羽地方の出入り口として 要衝の地であった。従って白河藩の締める地位は奥羽地方の外様大名の抑えでもあり、 初代の丹羽氏を除いては、有力な親藩・譜代大名が煩雑に入れ替わった。 寛永4年(1627)棚倉藩より丹羽長重が10万石で入封し、白河藩が立藩。 長重は白河城とその城下町を建設した。第2代藩主・光重は二本松藩に転封。 代わって上野国館林藩藩おり松平(榊原)忠次が14万石で入封。 その後、本多家、松平家(奥平)、松平家(越前)、松平家(久松)最後は阿部家が武蔵国忍藩より10万石で入封し8代藩主正静は棚倉藩に転封。白河藩領は二本松藩のお預かり地ちとなった。戊辰戦争時は藩主不在であった。明治元年に廃藩。

 
帝国劇場
現」帝国劇場

◆鳥取藩上屋敷跡

上屋敷坪数:9,479坪
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男、長吉が6万石で入封し鳥取藩を立藩した。元和元年(1615)嗣子・長幸に代に備中松山藩に転封となった。 同年播磨国姫路藩より輝政の子・池田光政が32万石で入封した。 光政は在封していた16年間の間に鳥取の城下町の基盤を整備した。 寛永9年(1632)備前国岡山藩主・池田忠雄が死去し、その嫡男の光仲が家督を継ぐが、幼少であることを理由に鳥取藩に移封され、代わって光政が岡山へ入った。 これ以後、池田氏に分家筋が因幡・伯耆国32万5千石をおされることとなる。 鳥取池田家は輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。

 
広島藩
現国土交通省

◆広島藩(浅野家)上屋敷跡

上屋敷坪数:13,681坪
中国地方は毛利氏がその大半を治めていた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦したため、防長2国(萩、山口)に減封された。変わっ 尾張国清州より福島正則が安芸、備後2国49万8千石で入封した。 その後、福島正則も幕府の許可を得ず、城の石垣を改修した罪で、改易させられ 代わって、紀州藩より浅野長晟(ながあきら・浅野長政の次男)42万6千石で入封する。安芸は土豪の勢力が根強いところであったが、浅野長晟は厳しい態度で臨んだ。 第2代藩主・浅野光晟は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て、浅野光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩である。またこの時から松平姓を名乗ることを許された。

 

福岡藩
現外務省

 

◆福岡藩(黒田家)上屋敷跡

上屋敷坪数:21,160坪
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの戦功により、筑前を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津城主の黒田長政が52万3千石で入封した。2代・忠之は父・長政の遺言により弟の長興に5万石(秋月藩)、高政に4万石(東連寺藩のち直方藩)を分知した。これにより石高は43万3千石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。 黒田家は初代長政から12代長知(ながとも)の幕末まで続いた。

 

米沢藩
現法務省

 

◆米沢藩(上杉家)上屋敷跡

上屋敷坪数:7,432坪
関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、慶長6年(1601)会津120万石から米沢30万石に減封された。家臣の削減は行わず、120万石時と同じであったため財政難に苦しめられた。また3代藩主綱勝が嗣子を定めないまま急死する。本来ならば改易となるところ、保科正之の尽力によって、綱勝の妹富子と高家の吉良義央の子・綱憲が末期養子が認められが、領地半減の15万石で認められた。 相次ぐ減封にもかかわらず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、財政難に家臣・民衆も苦しめられ、困窮した。8代藩主重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどだった。9代藩主治憲(鷹山)の藩政改革で財政に再建を果たした。

 

現青山学院大学

◆西条藩上屋敷跡

上屋敷坪数:40,000坪
西条藩は、寛永13年(1636)伊勢国神戸藩・一柳直盛が6万8千石で入封する。 直盛は入封途上大阪で没し、嗣子直重が3万石を継ぎ、次男直家が播磨国小野藩を2万8千石で、3男直頼が伊予国小松藩を1万石で継いだ。 寛文5年(1665)第3代藩主・一柳直興(なおおき)は御所造営の業務怠慢、参勤交代の遅参、失政などを理由に改易となり、その後しばらく天領となった。 寛文10年(1670)紀州藩、初代藩主・徳川頼宣の3男、松平頼純(よりずみ)が紀州藩の支藩として3万石で入封する。支藩は本家・紀州徳川家の藩主が絶えた場合に備えた。第2代藩主頼致(よりよし)は紀州藩主、コ川吉宗が将軍となったため、紀州藩主を継いだ。西条藩松平家は参勤交代を行わない定府の大名であった。

 
慶応義塾大学
現慶応義塾大学

◆島原藩下屋敷跡

下屋敷坪数:11,856坪
戦国時代は有馬氏が治めていた。キリシタン大名の有馬晴あ関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康)与して本領を安堵されたが、慶長17年(1612)岡本大八事件の責任を取らされ甲斐国都留に幽閉の上、切腹に処された。その後元和2年(1616)、松倉重政が大和国五条藩より4万石で入る。松倉氏は領民に苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく弾圧した。そのため、寛永14年(1637)天草四郎を総大将に一揆が起こる。これが島原の乱である。松倉氏だけでは抑えきれず、幕府の出るところとなり、板倉重昌を総大将に鎮定軍を送るが重昌は戦死をし、次に「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱を派遣する。信綱は九州の諸大名およそ12万を総動員して、原城に立て籠もるキリシタン、領民に対して兵糧攻めを行い、3か月後兵糧に尽きた反乱軍は皆殺しになった。松倉勝家も反乱が起きた責任をとらされ斬首刑または切腹に処された。その後は譜代大名の松平忠房が丹波福知山藩から6万5千石で入る。一時期戸田氏が入るが、その後また松平氏が安永7年(1774)〜明治4年(1871)まで治める。

 
金刀比羅宮
現虎の門金刀比羅宮

◆丸亀藩上屋敷跡

上屋敷坪数:5,362坪
江戸時代初期は生駒氏が治める。寛永17年(1640)生駒騒動により改易される。 その後、肥後富岡より山崎氏が入る。山崎氏は3代で断絶し改易となる。 万治元年(1658)京極高和が播磨より入封する。万治3年(1660)丸亀城天守が完成。 元禄7年(1694)京極高通に多度津1万石を分け多度津藩を立藩する。天明年間(1781〜1788)うちわの製造を藩士の内職として盛んに奨励し、金毘羅参りの土産物として売る。それが今日まで丸亀の名物となる。寛政6年(1794)藩学校正明舘を創立する。丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤した。

 
アメリカ大使館
現アメリカ大使館

◆牛久藩上屋敷跡

上屋敷坪数:4,891坪
牛久藩を12代にわたって支配下山口氏は、戦国時代の西国大名では最強と最強と呼ばれた名門・大内氏の系統と言われている。祖先は応永の乱で室町幕府第3代将軍・足利義満に反乱を起こした大内義弘の次男・大内持盛と言われ、大内氏の本拠地・周防国山口の地名をとって、山口氏と称した。関ヶ原の戦いで東軍・徳川家康に仕え、戦功で上総国5千石、武蔵国5千石の所領を与えられ1万石のい大名になった。その後、下野国5千石を加増され、1万5千石となった。 慶長18年(1613)重政の嫡子・山口重信と大久保忠隣の養女との婚姻を幕府に届け出なかったとして、私婚禁止違反であるとして幕名により改易された。 この改易は、同年に起きた大久保長安事件の余波の一つであった。 その後、重政は罪を許され再び常陸国、遠江国1万5千石の所領を与えられた。第2代藩主・山口弘隆の時、領地が常陸国、下総国に集められ、牛久に陣屋を構えた。

 

 

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