江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸・東京の寺院を歩く)

上野寛永寺本堂
現在の寛永寺本堂
綱吉霊廟門
五代将軍綱吉の霊廟門

上野寛永寺
(徳川将軍家菩提寺)

寛永寺は京の比叡山にならって、江戸城の鬼門にあたる上野忍ケ岡(現上野公園)に徳川幕府の安泰と江戸城鎮護のために、寛永2年(1625)天海僧正によって創建された。 天台宗の関東総本山。芝増上寺とともに江戸の両山といわれた徳川家の菩提寺である。4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、12代家定の6人の将軍が葬られている。 承応3年(1654)に後水尾天皇の第三皇子・守澄法親王が入山し、以来、明治維新まで歴代皇族が住職を勤めた。慶応4年(1868)の彰義隊の上野戦争で、本坊、中堂、阿弥陀堂、東叡山三十六坊などの伽藍がことごとく焼失してしまった。 明治期に寛永寺寺領はことごとく新政府に接収された。しかし明治4年(1871)に寛永寺復興の許可がおり、明治10年に天海ゆかりの川越喜多院の本地堂(寛永15年建築)を移築したのが現在の寛永寺根本中堂である。

<住所>
台東区上野桜木1-14-11
<交通>
JR「鶯谷駅」より徒歩10分

寛永寺の場所地図

増上寺
増上寺本殿
将軍家墓門
徳川家墓所の鋳抜門

■芝増上寺
(徳川将軍家菩提寺)

上野の寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺。 浄土宗大本山。2代将軍秀忠をはじめ歴代6人の将軍が眠っている。 (2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂) 山号は三縁山、院号を広度院という。 明徳4年(1393)に江戸城内紅葉山あたりにあった。江戸城の拡張に伴って慶長3年(1598)現在地に移転した。現在の二天門、三解脱門、台徳院霊廟惣門をはじめ、黒本尊、経蔵などの江戸時代からの寺宝が多数ある。 又、今年のNHK大河ドラマ「姫たちの戦国江」の墓や「皇女和宮」の墓もある。

< 住所>
港区芝公園4-7-35
<交通>
都営地下鉄
三田線
「御成門駅」
下車徒歩5分

増上寺の場所地図

浅草雷門
浅草雷門
浅草寺
浅草寺

■浅草浅草寺

推古36年(628)3月18日のこと、檜前浜成、檜前竹成兄弟が隅田川で漁をしていると1寸8分の観音像が網にかかった。その像を土師中知が改めると聖観音であることがわかり、中知の邸内に祠を建て祀ったのが浅草寺の縁起である。 その後、大化元年(645)に勝海上人が本尊の聖観音を秘仏と定めた。 徳川家康が江戸に入府すると、天海僧正の進言により、徳川家の祈願所となり、寺領500石が与えられた。寛永19年(1642)に伽藍が火事で焼失し、7年後の慶安2年(1649)に将軍家光によって再興したが、昭和20年3月の東京大空襲で灰塵に帰した。 現在の本堂は昭和33年(1958)10月17日落成したものである。 五重塔の位置も江戸時代は現在と反対のところにあった。

<住所>
台東区浅草2-3
<交通>
東京メトロ銀座線「浅草駅」下車
徒歩5分

浅草寺の場所地図

護国寺山門
護国寺山門
護国寺本堂
護国寺本堂

■護国寺

5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いによって建立した。天和元年(1681)、桂昌院は、上野国大聖護国寺の住職僧亮賢(りょうけん)を招き開山させた。 本尊は、桂昌院の持仏・如意輪観音。 最初は桂昌院の祈願寺であったが、やがて幕府のバックアップとともに、将軍家の武運長久を祈る寺となり、寺領も300石から1200石までになり、立派な伽藍も建ち、大いに繁栄した元禄10年(1697)幕府より観音堂が建立された。これが現在の本堂で国の重要文化財である。本堂左わきの薬師堂も禅宗様式の建物で、元禄期に建立。 同じく本堂左手前にある月光殿は大津市三井寺の客殿であったものを、昭和3年(1928)に移築したもので、桃山時代の書院造の貴重なもので重要文化財である。 本堂後ろの墓地には、三条実美、山形有朋、大隈重信など明治の元勲の墓が並んでいる。

<住所>
文京区大塚5-40-1
<交通>
東京メトロ有楽町線「護国寺駅」
下車徒歩1分

護国寺の場所地図

深川不動尊
深川不動尊本堂

龍神水

成田山深川不動尊

千葉県成田山新勝寺の出張所である。 元禄16年(1703)に富岡八幡宮の別当永代寺へ出開帳して以来、その後 毎年のように出開帳が行われ、江戸庶民で賑わった。明治2年(1689)吉祥院境内に成田山の出張所を設け、明治11年(1878)成田山から不動像を移して、堂宇を新築することとなった。明治14年(1881)6月に不動堂の上棟式をあげ、以後成田山新勝寺の出張所として反映している。昭和20年3月10日の空襲により堂宇は焼失したが、昭和26年再建された。特に納めの不動(12月28日)や毎月28日の縁日では参拝者で賑わう。

<住所>
江東区富岡1-17
<交通>
東京メトロ東西線「門前仲町駅
下車徒歩5分

成田山深川不動尊の場所地図

泉岳寺
泉岳寺山門
赤穂義士の墓
赤穂義士の墓

■高輪泉岳寺

慶長17年(1612)3代将軍家光の禅学の師だった宗関和尚が外神田に開いたのがはじめ、寛永18年(1641)に火事に会い、現在地に移った。 播州赤穂藩浅野家の菩提寺で、四十七士の墓がある。 赤穂義士の墓の戒名には「刃」「剣」の文字が使われている。 藩主浅野内匠頭と奥方「瑶泉院」の墓もある。 泉岳寺は「大名寺」と言われるほど、江戸時代は多くの大名家の墓所があった
下野大田原藩大田原家、大和芝村藩織田家、長門府中藩毛利家、豊後日出藩木下家、丹波福知山藩朽木家、備中松山藩水谷家、などの大名家の菩提寺にもなっている。赤穂四十七士の墓前には線香の煙の絶える日は今もない。

住所:港区高輪2-11-1
<交通>
都営地下鉄三田線「泉岳寺駅」
下車徒歩3分

泉岳寺の場所地図

池上本門寺山門
池上本門寺山門
池上本門寺本堂
池上本門寺本堂

■池上本門寺

創建は、法華宗に帰依したこの土地の郷士、池上衛門大夫宗仲が屋敷を寄進して寺院とし、建治2年(1276)に日蓮がこれを本門寺と命名したのにはじまる。 弘安5年(1282)、日蓮は病気療養のため身延山を下り、常陸の隠井の湯に向かう途中で本行寺(旧宗仲邸、本門寺大坊)に立ち寄った。しかし、ここで病状が重くなり、10月13日の未明に入滅した。本門寺はその後、日蓮の直弟子である、日朗によって伽藍が整備され、中世には関東の有力武士から庇護されて発展した。 江戸時代には徳川将軍家や諸大名の尊崇を集めて関東一の巨刹と称された。 五重塔、経蔵、宝塔、総門は震災、戦災を免れた貴重な建物である。

<住所>
大田区池上1-1-1
<交通>
・東急池上線「池上駅」下車
徒歩10分
・都営浅草線「西馬込駅」下車
徒歩15分

池上本門寺の場所地図

目黒不動尊山門
目黒不動尊山門
目黒不動尊
目黒不動尊本堂

■目黒不動尊(瀧泉寺)

上野寛永寺を本寺とする天台宗の寺院。 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色の筆頭である。 3代将軍家光の帰依を受けて、寛永11年(1634)には50余棟に及ぶ山岳寺院配置の大伽藍が完成し、江戸有数の名刹と称された。壮麗をきわめた堂宇は、大半が戦災で焼失してしまった。前不動堂や勢至堂は難を逃れ、江戸中期の建築を今に伝えている貴重なものです。本堂に登る左手前には開祖以来、水が絶えることがないと言われる「独鈷の滝」が流れ落ちている。また石段「男坂」の下には家光ゆかりの「鷹居の松跡」がある。 「女坂」の途中の石窟内には寛政8年(1796)造立の「役行者像」がある。

<住所>
目黒区下目黒3-20-26
<交通>
・JR「目黒駅」より徒歩約20分
・東急目黒線「不動前駅」より徒歩15分

目黒不動尊の場所地図

築地本願寺
築地本願寺本堂
間新六の墓
赤穂義士 間 新六の墓

■築地本願寺(西本願寺)

浄土真宗の寺、京都の西本願寺の別院。元和3年(1617)の創建時は、浅草横山町にあり、江戸御坊と称された。明暦3年(1657)の明暦の大火により焼失し、佃島の門徒たちの強い願いにより、門徒宗が埋め立てて築いたこの地に再建された。当時の堂宇は本瓦葺入母屋造りの大規模なもので、その大屋根は江戸港に入る船の良い目印となっていた。 関東大震災により焼失した。現在の建物は古代インド建築様式を取り入れたモダンな建物となっている。設計は建築史学者の伊藤忠太により昭和9年に建てられた。 江戸期の代表的な画家、江戸期琳派を代表する「酒井抱一」の墓や、忠臣蔵で有名な 赤穂浪士「間真六」(はざましんろく)の供養塔等がある。

<住所>
中央区築地3-15
<交通>
・東京メトロ日比谷線「築地駅」より徒歩1分
・都営浅草線「東銀座駅」より
徒歩5分
・東京メトロ有楽町線「新富町駅」より徒歩5分
・都営大江戸線「築地市場駅」より徒歩5分

築地本願寺の場所地図

回向院
回向院山門
回向院明暦の大火碑
「明暦の大火」碑

■両国回向院

山号は諸宗山無縁寺回向院という。明暦3年(1657)正月18日の明暦の大火(振袖火事)により江戸の大半が焼失し、死者は10万人を超えた。この大火の焼死者を集めて埋葬し 回向したのが回向院のはじめである。その後、江戸の無縁仏を宗派に関係なく埋葬するようになり、風水害・津波・地震・大火・水子・牢病者・斬罪者を除刑死者など、無数の不幸な人々をも葬っている。昨今はペットの墓もある。

<住所>
墨田区両国2-8
<交通>
JR総武線「両国駅」下車徒歩5分

回向院の場所地図

 

円通寺黒門
寛永寺黒門
彰義隊墓
彰義隊の墓

■円通寺

下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神とならんで下谷の三寺と称された。 境内左側に上野寛永寺の黒門が残されている。慶応4年(1868)彰義隊と新政府軍との戦いが上野の山で開始された。その時のおびただしい程の銃弾の跡が残され、戦闘の激しさをうかがわせる。上野戦争はわずか1日で終わり、新政府軍の命で幕軍の死体は放置されていたが、円通寺住職の仏磨と神田の侠商三河屋幸三郎が願い出て266体を上野の山で荼毘にふし、埋葬し、一部を寺に埋葬した。境内の五輪塔「戦死墓」とあるのは彰義隊士の墓で、「死節の墓」は日光、宮古・函館で戦死した幕軍戦死者の招魂碑である。

< 住所>
足立区南千住1-59-11
<交通>
・東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」より徒歩5分
・JR「南千住駅」より徒歩10分
・都電荒川線「三ノ輪橋駅」より 徒歩3分

円通寺の場所地図

伝通院
伝通院本堂
お大の方墓
コ川家康生母於大の方墓

■伝通院

コ川家康の生母、於大の方(法名:伝通院殿)を葬った徳川家の菩提寺
於大の方は、14歳の時に岡崎城主松平広忠と結婚し、家康を生んだ。しかし、実家が織田方についたため、今川方の広忠と離縁させられ、3歳の家康と別れた。のちに家康は今川氏の人質として、つらい少年時代を過ごすが、於大の方は家康のことを忘れず、於大の方が京都の伏見城で亡くなると、遺体を江戸に運び、この地に壮大な伝通院を築き丁重に葬った。 寺領は830石で、関東浄土宗の格式ある寺として、常時千人余りの修行僧が集い、僧堂、寄宿舎は盛観をきわめた。また、他にも徳川家ゆかりの女性「千姫」や子供たちの墓がある。

<住所>
文京区小石川3-14-6
<交通>
・東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」駅より徒歩10分

・都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩10分

 

伝通院の場所地図

東禅寺山門
東禅寺山門
東禅寺事件
東禅寺襲撃事件

■東禅寺

慶長15年(1610)に嶺南禅師が赤坂溜池に開創したのがはじめ。 東禅寺は寛永13年(1636)に現在地に移転してきた。赤坂にある「嶺南坂」は 嶺南禅師の庵があったため地名として残っている。 禅宗の大寺院らしく、多くの大名家がここを菩提寺としている。 江戸時代には12家の大名の墓地があった。現在でも日向飫肥藩伊東家(飫肥は嶺南の出身地)、豊後臼杵藩稲葉家、豊後臼杵藩稲葉家、因幡鳥取藩池田家、備前岡山藩池田家、伊予宇和島藩伊達家、伊予吉田藩伊達家などである。 幕末、安政6年(1859)には、最初のイギリス公使館が置かれた。
イギリス公使館が置かれた東禅寺は尊攘派志士の標的となり、2度の襲撃事件が起きている。 1度目は、文久元年(1861)5月、水戸浪士の有賀半弥ら14名が、公使の帰館をまって襲撃したが、長崎領事と書記官の2人が負傷しただけで済んだ。2度目の文久2年5月に起きた襲撃事件では英国人水兵2人が死亡している。この時の犯人は警備の松本藩士であった。

< 住所>
港区高輪3-16-16
<交通>
JR「品川駅」より徒歩7分

東禅寺の場所地図

 

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