江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸城無血開城の史跡を歩く)


勝西郷会見の地
西郷隆盛・勝海舟会見の碑

西郷隆盛・勝海舟会見の地

慶応4年(1868)3月9日、勝海舟の使者・山岡鉄舟が駿府在の東征軍参謀西郷隆盛と会見した。12日に海舟は池上本門寺に設けられた本営に西郷を訪れ、翌日高輪の薩摩下屋敷で会談した。そして、江戸総攻撃の前日14日、田町蔵屋敷で三度両雄は会見し、 江戸攻撃中止が決定した 東征軍はもちろん、旧幕軍も和戦両方をにらんだ、際どい合意であった。

<場所>
港区芝5-33-8
<交通>
JR「田町駅」より徒歩2分
愛宕神社
愛宕神社男坂(86段)
江戸の町並み
愛宕山からの江戸の街眺望

愛宕山・愛宕神社

当時は愛宕神社がある愛宕山は江戸の街を一望できた。 西郷と勝がここから江戸の街を眺め、戦火で包むことは避けようとはなしあったとも言われている。江戸では一番見晴らしのきくところであった。現在では、当時を偲ぶこともこともできないほど高いビルで埋まっており、眺望はまったくきかない。

<住所>
港区愛宕1-5-3
<交通>
東京メトロ日比谷線「神谷町駅」より徒歩5分
都営三田線「御成門駅」より徒歩7分
薩摩藩上屋敷跡
薩摩三田藩邸跡(現NEC本社ビル)

薩摩三田藩邸跡

大政奉還直前、西郷隆盛は益満休之助らを三田藩邸に送り、関東攪乱を命じた。攪乱隊は幕府御用商人などに放火、強盗を行い、御用党と呼ばれた。 そのため、江戸の警護を任されている庄内藩兵により、三田藩邸が焼討に会い 武力討幕の大義名分を作ってしまった。この事件により薩摩側には多くの犠牲者が出た。 この事件をきっかけに、鳥羽伏見の戦いそして戊申戦争へと戦火は広がっていった。

<住所>
港区芝5-7-1
NEC本社ビル
<交通>
都営三田線・浅草線「三田駅」より徒歩5分
JR{田町駅」より徒歩7分
山岡鉄舟
山岡鉄舟
山岡鉄舟墓
山岡鉄舟の墓(全生庵)

山岡鉄舟の墓(全生庵)

幕末三舟の一人(他は勝海舟・高橋泥舟)。通称は鉄太郎。安政3年に講武所世話役となる。清河八郎と親交があり、文久3年に将軍(家茂)上洛に際し、幕府の浪士組の募集を行った。その時に浪士取締役を命じられ、東帰後は外国使節の警護を命じられるが、拒否をしたため謹慎処分となった。慶応4年2月には精鋭隊頭取となって寛永寺のコ川慶喜の警護にあたり、3月には勝海舟の命で駿府の西郷隆盛と面談、慶喜の恭順を伝え、徳川家寛典見通しを得ると、江戸開城の条件や幕臣の鎮撫に尽力をする。全生庵を開き、明治21年7月19日に死亡。

<住所>
台東区谷中5-4-7
<交通>
JR「日暮里駅」より徒歩8分
勝海舟生誕の地

勝海舟生誕之地

勝海舟は文政6年(1823)にこの場所で産声をあげた。ここは父・小吉の実家である男谷家があった場所で、小吉は勝家に養子として入っていた。 その後、海舟が7歳の時に本所に居を移すが、それまではここで暮らしていた。

<場所>
東京都墨田区両国4-25-3 両国公園内
<交通>
JR総武線「両国駅」東口より徒歩6分
弘福寺

■弘福寺

隅田川のほとりにある禅寺。勝海舟は19歳の時から4年間ここで禅の修行を積んでいる。寺の創建は延宝元年(1673)で、中国の禅寺の影響を強く受けた建築様式が特徴。江戸時代から禅の修行に訪れる人が多かった。 境内には江戸末期のい儒学者・池田冠山ら著名人の墓碑が残されている。

<場所>
東京都墨田区向島5-3-2
<交通>
東武伊勢崎線「曳舟駅」より徒歩15分
牛嶋神社

■牛嶋神社

言問橋のたもと、隅田公園に隣接する本所地区の総鎮守。 かっては桜橋のたもとあったが、関東大震災後に現在の地に移された。 境内にある「撫で牛」は、体の悪い部分と同じ場所を撫でると治癒すると伝えられており、江戸庶民にも評判だったそうだ。 勝海舟が本所で暮らしていた頃、境内で剣術の修行に励んでいたという言い伝えも残る。

<場所>
東京都墨田区向島1-4-5
<交通>
東武伊勢崎線「業平橋駅」より徒歩10分
能勢妙見堂

■能勢妙見堂

勝海舟が幼少期に犬に急所をかまれ大怪我を負った際、父・小吉が全快を祈ったのがここだと伝えられている。その縁で、境内には勝の胸像が建てられている。安永3年(1774)旗本・能勢頼直らが江戸屋敷内に能勢妙見堂別院として建立したのが始まりで、毎年2月15日には、天下泰平を祈願する例大祭が行われる。

<場所>
東京都墨田区本所4-6-14
<交通>
都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋駅」より徒歩10分
うなぎ やっこ

鰻「やっこ」

ジョン万次郎に連れられて勝海舟もよく訪れていたという。 創業は寛政年間(1789〜1801)という老舗である。 国産鰻を使ったうな重は、あっさり薄めのタレで鰻本来の旨味を引き出した「やっこ」ならでは味。200年前から受け継がれてきた味である。 現在の建物は大正時代の和洋折衷建築を意識した内装になっている。

<場所>
東京都台東区浅草1-10-2
<交通>
東京メトロ銀座線「田原町駅」より徒歩3分
壺屋総本店
壺屋最中

壺屋総本店(最中)

江戸時代創業の和菓子の老舗。当時からかわらないレシピで作られている最中は、後味がさわやかな甘さが特徴。江戸時代には赤坂氷川神社近くに店を構えていた。幕末には勝海舟も足繁く通っていたそうである 明治初期に一度店を閉めるが、勝海舟の励ましにより再度開店。その縁で店内には勝海舟直筆の額が飾られている。

<場所>
東京都文京区本郷3-42-8
<交通>
東京メトロ丸の内線・都営地鉄大江戸線「本郷三丁目駅」より徒歩8分
勝安芳邸跡

■勝安芳邸跡 (かつやすよし)

安芳(やすよし)は、勝海舟が維新後に改名した名。 勝海舟は明治5年(1872)から亡くなるまで明治32年(1899)まで住んでいた。海舟の死後、邸宅跡地は東京市に寄贈され、氷川小学校となった。その氷川小学校も平成5年に廃校となった。現在は区立特別養護老人ホームとなっている

<場所>
東京都港区赤坂6-6-14
<交通>
東京メトロ千代田線「赤坂駅」5b出口徒歩5分
勝海舟夫妻の墓

勝海舟夫妻の墓
(洗足池湖畔)

海舟は江戸城開城交渉の為、官軍の本陣、池上本門寺に向かう途中、洗足池で休憩し、この場所が気に入り、維新後はこの地に別邸を建て住んだ。 海舟は西南戦争で亡くなった西郷が賊軍扱いされたことを悼み、自費で葛飾の寺に西郷隆盛留魂碑を建てた後にこの碑は海舟の墓の傍に移された。

<場所>
大田区南千束2-2
<交通>
東急池上線「洗足池駅」より徒歩5分
高橋泥舟墓

高橋泥舟の墓(大雄寺)

幕末三舟の一人(勝海舟・山岡鉄舟)幕臣。上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜の身柄を警護した。維新後、新政府より仕官を打診されたが、全てを断り、無位無官のまま書画や骨董を扱い生家を立てた。

<場所>
台東区谷中6-1-26
<交通>
JR「日暮里駅」「鶯谷駅」より徒歩10分
東京メトロ千代田線「根津駅」より徒歩10分
皇女和宮墓

皇女和宮の墓所 (増上寺)

皇女和宮は幕府の公武合体の一環として第14代将軍コ川家茂に嫁ぐ。 当初は、将軍の嫁ぐことを拒否していたが、孝明天皇の命で嫁ぐこととなった。大政奉還と王政復古により戊辰戦争が始まり、官軍の倒幕に対し、朝廷や東征大総督となった元婚約者・有栖川熾仁親王らに、コ川慶喜の命と徳川家の存続のために尽力をつくした。当初、将軍家に嫁ぐことを嫌っていたが、嫁いだ後和宮は家茂のことを慕っていた。

<場所>
港区芝公園4-7-35
<交通>
都営三田線「御成門駅」・「芝公園」より徒歩3分
コ川慶喜墓
徳川慶喜の墓(神式)

コ川慶喜の墓(谷中霊園)

慶応3年(1867)10月、土佐藩建白の大政奉還を行う。その後王政復古と薩摩側の調略により、鳥羽伏見の戦いから戊申戦争の幕が切って落とされる。慶喜は恭順謝罪の姿勢を見せるため、上野寛永寺に謹慎する。この間、勝海舟らの尽力により、死一等を減じられ、水戸徳川家お預けとなり、その後、駿府に移り謹慎生活を送る。

<場所>
台東区谷中7-5-24
<交通>
JR「日暮里駅」より徒歩5分
有栖川熾仁親王像

有栖川熾仁親王像

(現有栖川記念公園内)
戊辰戦争では志願して東征軍大総督となる。また親王は皇女和宮の婚約者でもあった。幕末の公武合体により皇女和宮は14代将軍コ川家茂の正室となった。戊辰戦争後は、新政府の最高職総裁を就任した。 像はもと参謀本部前にあったものをこちらに移した。除幕式にはコ川慶喜も参列し、祝辞を述べた。

<場所>
港区南麻布5-7-29 有栖川記念公園
<交通>
東京メトロ日比谷線「広尾駅」より徒歩3分

 

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