江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸の祭りを歩く)

日枝神社
日枝神社
山王祭
山王祭

■山王祭り(日枝神社

日枝神社の神幸祭の祭礼。毎年6月15日に行われる。江戸時代は神田祭りとならんで 天下祭りと言われた。 日枝神社の歴史は古く、太田道灌によって江戸城内にあった。その後徳川家康が江戸城造築の際、現在地に移された。日枝神社は徳川将軍家の産土神として祀られた。 元和元年(1615)には祭りの山車や神輿が江戸城内に入ることが許され、将軍の上覧が許されるようになった。このため天下祭りと呼ばれた。また祭りは毎年行われていたが、天和元年(1681)以後は神田明神の神田祭と交互に隔年で行われることとなった。 祭りの様子は、広重の江戸名所百景にも描かれている。

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神田明神
神田神社
神田祭01
神田祭

■神田祭(神田明神

日枝神社の山王祭と並んで天下祭りと言われた 又江戸の三大祭りとして、神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様と謳われた。
元々は山車祭りであったが、明治以降交通の発達と共に山車から神輿へと変わってきた。
祭礼は、本来は旧暦の9月15日に行われていたが、現在は5月中旬となっている。大祭は隔年で行われる。2011年に行われる予定であったが、東日本大震災の影響で中止となった。


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浅草神社
浅草神社
三社祭り
三社祭

■三社祭(浅草神社)

毎年5月に行われる浅草神社のお祭りである。
三社とは、浅草寺縁起による。西暦628年宮戸川(現隅田川)で投げ網漁をしていた、檜前浜成、竹成兄弟が1体の観音像(1寸8分)を救い上げた。これを持ち帰り土地の文化人であった土師中知に見せた所、これぞ聖観音菩薩ということで、自宅に祠を建て祀ったのが浅草寺の縁起である。この聖観音を拾い上げた檜前浜成・竹成兄弟と土師中知の3人を 神として祀ったのが3社祭りの起源である。 江戸時代は浅草寺と浅草神社は一緒であったが、明治になり神仏分離令により浅草寺と浅草神社に分かれた。現在の社殿は慶安2年(1649)3代将軍家光公により建立されたもので関東大震災、東京大空襲にも奇跡的に残った、貴重な建物である。
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富岡八幡宮
富岡八幡宮
深川祭り
深川祭り(水かけまつり)

■深川祭り(富岡八幡宮)

江戸三大祭りの一つ。神田祭、山王祭と並んで有名である。 祭礼は、毎年8月15日を中心に行われ、暑さ避けに神輿に水を掛けることから別名「水掛け祭り」と呼ばれる。本祭は3年に1度行われる。 文化4年8月19日(1807)深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰めかけた群衆の重みに耐え切れず、永代橋が中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、深川祭りを見るため押し掛けた群衆が多く、次々と橋から転落し、死者、行方不明者は1,400名を超える大惨事を引き起こしてしまった。

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朝顔市
朝顔市
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入谷鬼子母神

■朝顔市(入谷鬼子母神)

朝顔市は毎年7月6日〜8日の3日間行われます 朝顔市は入谷の鬼子母神を中心として、言問い通りに約120軒の朝顔業者の露店が並び 毎年たくさんの人出で賑わいます。
入谷の朝顔市が有名になったのは江戸時代末期の文化・文政の頃です。 最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されました。 明治になると武士に代わって植木職人が造るようになります。入谷の朝顔が有名になったのは、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたのと、朝顔の花がいろいろな変わり咲きをすることが人々にブームを巻き起こしました。 江戸時代から盛んに栽培されてきた朝顔市も徐々にすたれ、ついに大正2年に最後の植木屋が廃業し、入谷から朝顔市が姿を消してしまいました。復活したのは昭和23年、戦後のすさんだ世の中を少しでも明るくしようということで、地元有志と下谷観光連盟の協力で
ついに江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活することが出来ました。

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花園神社酉の市
縁起物の熊手
花園神社
花園神社

■花園神社

酉の市は、例年11月の酉の日に行われる。各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼。
花園神社の酉の市は明治時代に始まりました。 酉の市は、大鳥神社の祭神である日本武尊が東夷征伐の戦勝祈願をし、帰路の時にお礼参りをしたことにちなみ、日本武尊の命日である11月の酉の日に行われるようになりました。
商売繁盛の熊手を売る露天商の賑やかな声は、師走を迎える街には欠かせない風物詩となっております。

   

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大鳥神社
鷲神社(おおとりじんじゃ)
大鳥神社酉の市
縁起物の熊手

■鷲神社(おおとりじんじゃ)

江戸時代後期から、浅草の鷲在山長国寺(じゅさいさん・ちょうこくじ)境内の鷲大明神社で行われる酉の市が盛んになった。「本酉」「大酉」と呼ばれた花又の酉の市に対し「新酉」と呼ばれた。当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれ、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。11月の酉の日には妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになった。 「酉の市」に立つ日は、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。熊手は福を「掻き込む」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。 又熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、福徳をかき集める。鷲づかむという意味を込められている。熊手を買うと熊手商らが威勢よく手締めが打たれる。

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羽子板市
羽子板市
浅草羽子板市
浅草寺境内

■羽子板市(浅草寺)

師走の12月17日〜19日に、浅草寺境内で開かれる年の瀬の風物詩。
羽子板市の縁起は、古くは「邪気を跳ね返す板」として女の子の成長を願う風習からきています。羽子板市で売られている押絵羽子板の起源は、江戸時代の文化・文政年間(1814〜1829)頃からと言われています。江戸末期には歌舞伎役者絵が盛んに作られました。
現在のような浅草の羽子板市は明治中期から、毎年歳末に行われる浅草寺「歳の市」が始めといわれ、戦後の昭和25年ごろから「羽子板市」の名で呼ばれるようになりました。


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