東京散歩「江戸史跡散歩」(幕末の江戸事件を歩く) |
中高年にお勧め。散歩を通して江戸の歴史を知ることが出来ます。古地図を片手に、さあ江戸史跡散歩に出掛けましょう! |
東京散歩「江戸史跡散歩」 (幕末の江戸事件を歩く)
水戸浪士による襲撃事件図 東禅寺山門 東禅寺本堂 |
東禅寺は当時イギリス公使館として使われていた。衝撃事件は文政元年5月28日(1818)と文政2年5月15日(1819)の2度起きている。 |
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清河八郎 麻布一ノ橋 伝通院清河八郎と貞女阿蓮の墓 |
天保元年10月10日生まれ(1830) |
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薩摩藩上屋敷跡(現NEC本社ビル) 薩摩藩邸焼討事件の図 薩摩藩邸焼討事件犠牲者の墓 杉並区大圓寺 |
大政奉還直前、西郷隆盛は益満休之助らを江戸の三田藩邸に送り、関東攪乱を命じた。 これは倒幕に対する大義名分を得るためのきっかけ作るためであった 薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助らの指導受け、攪乱隊として幕府御用商人などに放火・強盗を行い、御用党と呼ばれた。 これに対し、幕府方も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に賊の取り締まり強化を指示したが十分な効果は上がらなかった。 騒乱行為はますます拡大してゆき、賊は薩摩藩邸に逃げ込んだため、幕府は庄内藩に命じ 薩摩藩邸に行き、賊徒浪士の武装解除した上で、一人残らず引き渡すように通告したが 聞き入れられず、ついに幕府側は討ち入りを決行せざるを得なかった。 市中警備の庄内藩及び上山藩鯖江藩、岩槻藩の藩兵は三田藩邸に討ち入った。 この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64名、幕府方では上山藩が9名 庄内藩2名の11名が死亡、捕獲された浪士たちは112名に及び、この中に益満休之助もいた。この事件は薩摩藩に対し武力討幕の大義名分を与える結果となった。勝海舟は益満休之助の身柄を預かり、のちに徳川家存続交渉の為、西郷のもとへ使者山岡鉄舟を送る際動向をさせた。 この事件は、すぐに大阪城にいる徳川家幹部のことへ伝わり、幕府は朝廷へ討薩を上表し 慶応4年1月、軍を編成して京都へ向けて進軍を開始し、鳥羽伏見で薩軍との戦端が切られ、戊辰戦争の幕が切って落とされるきっかけとなった事件である。 |
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御殿山の説明板 御殿山公園 土蔵相模模型 |
眼下に江戸湊を見下ろす高台で、江戸時代初期には徳川家康が建立したと伝えられる品川御殿があったため、御殿山と呼ばれるようになった。
御殿は元禄15年(1702)2月11日四谷大宗寺付近の出火が原因で焼失し、その後再建はされなかった。
寛文頃から(1661〜73)桜の木が植えられ、文政7年ごろには600本に及ぶ桜の木があり、桜の名所として有名であった。
文久2年12月12日(1863)江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼き討ちされた事件。攘夷断行を幕府に促す勅使一行が江戸滞在中に高杉晋作ら10余人は横浜襲撃を計画したが長州藩主毛利定広の説得で中止した。その後御楯組を組織し、勅使らが江戸を離れてた後に実行した。
実行は、12月12日深夜土蔵相模に集合した一同は現場に向かった。高杉・久坂を指令役として焼夷弾をしかける志道ら3人、見張り、警護役7人であった。 |
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