江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」 (幕末の江戸事件を歩く)

東禅寺襲撃事件
水戸浪士による襲撃事件図
東禅寺山門
東禅寺山門
東禅寺本堂
東禅寺本堂

■東禅寺襲撃事件

東禅寺は当時イギリス公使館として使われていた。衝撃事件は文政元年5月28日(1818)と文政2年5月15日(1819)の2度起きている。
1回目は文政元年イギリス公使オールコックが長崎から江戸への帰路の際、長崎奉行より海路で返るよう警告されたが、オールコックの強い要望で、兵庫より陸路で江戸に入った。このことに関して水戸の攘夷派は激怒し、オールコックの殺害を計画し5月28日に東禅寺に乱入した。計画に加わったのは18名とされるが、警備にあたっていた幕府外国御用出役と郡山、西尾両藩兵との乱闘となり、襲撃組はそのほとんどが死亡し、逃亡したものも自刃、獄死をした。警備兵では死者2名と16名が負傷した。 オールコックは無事で、1等書記官オリファントが重傷、ほか2名が刀傷を受けるに留まった。 2度目は第1回目の襲撃から1年が経った文久2年5月29日の深夜に事件は起きた。イギリス兵2名が殺害された。犯人は警備にあたっていた松本藩士であった。理由は警備のために多大な出費を強いられていることから、公使を殺害すれば自藩が警備の任を解かれると考え起きた事件であった。

<住所>
港区高輪3-16-16
<交通>
JR「品川駅」高輪口より徒歩10分

東禅寺の場所地図はこちらから

清川八郎
清河八郎
清川八郎暗殺一の橋
麻布一ノ橋
清川八郎墓
伝通院清河八郎と貞女阿蓮の墓

■清河八郎暗殺事件

天保元年10月10日生まれ(1830)
出羽国庄内藩領清河村の郷士:斉藤豪寿の子、 本名は斉藤正明
天保14年(1843)清河関所役人の畠田安右衛門に師事し勉学に励む。 弘化3年(1846)には後に天誅組総裁藤本鉄石と知り合い信仰を深めた。 弘化4年(1847)江戸に出て、古学派の東条一堂に師事し、才を認められ東条塾で塾頭を命ぜられたが固辞。安積良斎に転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖、千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾を開設。 当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。 文久3年(1863)2月23日、将軍徳川家茂上洛の際、その警護の目的で浪士組が募集された。 この時、後の新撰組で名をはせる、近藤勇や土方歳三たちも応募することとなる 将軍上洛に先立ち、清河は盟主として浪士組を率いて京都に入る。その直後、清河は浪士組を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍家警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。この際攘夷に反対した根岸友山、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らは京に残留し清河と袂を分けた。幕府はこのような浪士組の動静に不安を抱き、すぐに江戸を呼び戻した。 清河は江戸に戻った後、浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。 文久3年(1863)4月13日幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名により 麻布一ノ橋で暗殺された。墓は伝通院にある。

<住所>
港区三田1-1
一ノ橋
<交通>
都営大江戸線「麻布十番駅」より徒歩5分

麻布一の橋の場所地図はこちらから

 

清河八郎の墓
伝通院の場所地図はこちらから

薩摩藩上屋敷跡
薩摩藩上屋敷跡(現NEC本社ビル)
薩摩藩邸焼討事件
薩摩藩邸焼討事件の図
薩摩藩邸戦死者墓
薩摩藩邸焼討事件犠牲者の墓
杉並区大圓寺

■薩摩藩邸襲撃事件

大政奉還直前、西郷隆盛は益満休之助らを江戸の三田藩邸に送り、関東攪乱を命じた。 これは倒幕に対する大義名分を得るためのきっかけ作るためであった 薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助らの指導受け、攪乱隊として幕府御用商人などに放火・強盗を行い、御用党と呼ばれた。 これに対し、幕府方も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に賊の取り締まり強化を指示したが十分な効果は上がらなかった。 騒乱行為はますます拡大してゆき、賊は薩摩藩邸に逃げ込んだため、幕府は庄内藩に命じ 薩摩藩邸に行き、賊徒浪士の武装解除した上で、一人残らず引き渡すように通告したが 聞き入れられず、ついに幕府側は討ち入りを決行せざるを得なかった。 市中警備の庄内藩及び上山藩鯖江藩、岩槻藩の藩兵は三田藩邸に討ち入った。 この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64名、幕府方では上山藩が9名 庄内藩2名の11名が死亡、捕獲された浪士たちは112名に及び、この中に益満休之助もいた。この事件は薩摩藩に対し武力討幕の大義名分を与える結果となった。勝海舟は益満休之助の身柄を預かり、のちに徳川家存続交渉の為、西郷のもとへ使者山岡鉄舟を送る際動向をさせた。 この事件は、すぐに大阪城にいる徳川家幹部のことへ伝わり、幕府は朝廷へ討薩を上表し 慶応4年1月、軍を編成して京都へ向けて進軍を開始し、鳥羽伏見で薩軍との戦端が切られ、戊辰戦争の幕が切って落とされるきっかけとなった事件である。

<住所>
港区芝5-7-1
<交通>
JR「田町駅」より徒歩10分

薩摩藩邸の場所地図はこちら

 

 

 

御殿山
御殿山の説明板
御殿山ガーデン
御殿山公園
土蔵相模
土蔵相模模型

■御殿山焼討事件

眼下に江戸湊を見下ろす高台で、江戸時代初期には徳川家康が建立したと伝えられる品川御殿があったため、御殿山と呼ばれるようになった。 御殿は元禄15年(1702)2月11日四谷大宗寺付近の出火が原因で焼失し、その後再建はされなかった。 寛文頃から(1661〜73)桜の木が植えられ、文政7年ごろには600本に及ぶ桜の木があり、桜の名所として有名であった。 文久2年12月12日(1863)江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼き討ちされた事件。攘夷断行を幕府に促す勅使一行が江戸滞在中に高杉晋作ら10余人は横浜襲撃を計画したが長州藩主毛利定広の説得で中止した。その後御楯組を組織し、勅使らが江戸を離れてた後に実行した。 実行は、12月12日深夜土蔵相模に集合した一同は現場に向かった。高杉・久坂を指令役として焼夷弾をしかける志道ら3人、見張り、警護役7人であった。

<住所>
品川区北品川1-22-17
<交通>
JR「品川駅」より徒歩10分

 

 




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