江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸の坂本龍馬史跡を歩く)


龍馬像

■立会川の坂本龍馬像

坂本龍馬が初めて江戸に出てきたのは嘉永6年(1853)4月、その 2ヶ月後の6月3日にペリーが4隻の黒船で浦賀に来航する。 幕府も突然の黒船来航で大騒ぎ、龍馬も土佐藩の一員として、土佐藩抱え屋敷に設けられた浜川砲台での警備に駆り出された。現在は埋め立てられて、往時の面影を見ることはできないが浜川砲台跡から敷石の一部が発見されたことを記念して、平成16年高知市から坂本龍馬の銅像が寄贈され、立会川駅前の北浜川児童公園に建っている。

<住所>
東京都品川区東大井2丁目
<交通>
京急「立会川駅」
より徒歩1分
土佐藩上屋敷跡
現東京国際フィーラム

■土佐藩上屋敷跡

土佐藩上屋敷跡は現在の東京国際フォーラムあたりである。山内容堂は幕末の政局の中心で幅広く活躍した人物である。 その容堂が江戸での生活の拠点となったのが、鍛冶橋にあった 土佐藩上屋敷である。 幕府から藩邸地として下賜されたのは、元禄初年のことであった。 以来幕末から明治4年7月8日の政府令によって還納されるまので間、 土佐藩上屋敷であった。

<住所>
東京都千代田区丸の内3-5-1
<交通>
JR「有楽町駅」より徒歩3分
土佐藩中屋敷跡
現中央区役所

■土佐藩下屋敷跡

龍馬が江戸に入り、最初に草鞋を脱いだのは土佐藩中屋敷、現在の中央区役所と築地警察署のあたりである。 二度目の江戸滞在中に龍馬は武市半平太と交流した。武市は龍馬より1か月程早く出府し、あさり河岸の桃井春蔵の士学館道場に入門していた。 龍馬はここから、約1キロほどのところにある、千葉定吉の北辰一刀流千葉道場へ通った。

<住所>
東京都中央区築地1-1
<交通>
東京メトロ有楽町線「新富町駅」より徒歩1分
浜川砲台跡

■浜川砲台跡(立会川)

嘉永6年(1853)に、土佐藩により造られた砲台の跡。黒船でペリーが 来航した時に臨時兵員として駆り出された龍馬はこの砲台からみる黒船 の偉容に衝撃を受けたという。砲台跡は平成16年になって発見された。 現在は1mほどの石が5〜6個残るのみである。

<住所>
東京都品川区東大井2
<交通>
京急「立会川駅」
より徒歩10分
桶町千葉道場跡
桶町千葉道場跡
千葉佐那の墓
千葉佐那の墓

■桶町千葉道場跡

坂本龍馬は、嘉永6年3月(1853)、19歳で初めて剣術修行のため江戸に下った。龍馬が通った剣術道場は桶町にあった、北辰一刀流の千葉定吉道場であった。千葉定吉は同流を創始した千葉周作の実弟にあたり、兄の周作とともの神田の玄武館で、道場経営にあたったあと、独立して、桶町に道場を構えた。龍馬はここで、定吉の長女、「佐那」と相思相愛の仲にもなった。千葉佐那は剣術のほか馬術、長刀などの武術にも長け、学才にも優れて美形という女性であった。 佐那は龍馬の没後も思いを捨てず、生涯を独身で通した。

<住所>
東京都千代田区八重洲2-7
<交通>
JR「東京駅」より徒歩10分
玄武館跡

■お玉が池千葉道場跡
(玄武館跡)

千葉周作は北辰一刀流の創始者である 周作は寛政6年(1794)生まれ、独自の流派、北辰一刀流を編み出した。文政5年(1822)に日本橋品川町に玄武館を開いた。その3年後文政8年(1825)にお玉が池近くに移転した。 俗に「技の千葉」と呼ばれた。 千葉周作は、門弟の身分は問わず。力量第一主義をとった。 歳末に行う、大試合の成績によって、席次を決めた。 千葉周作の生涯の門下生数は5〜6000名を下らない。 龍馬も2度目に江戸を訪れた時ここで修行をした。

<住所>
千代田区神田東松下町23
<交通>
都営新宿線
「岩本町駅}より徒歩3分
福井藩上屋敷跡
越前福井藩上屋敷跡
松平春嶽
16代藩主松平春嶽

■越前福井藩上屋敷跡

松平春嶽は田安家に生まれ、天保9年(1838)に越前の松平家に養子として入った。11歳で16代藩主となった。以後安政5年(1858)隠居するまで藩政の刷新に尽力した。春嶽は人材登用に積極的に進め、橋本左内や横井小楠など多くの優秀な人物をブレーンに抜擢、大きな成功を収めた。江戸での生活の拠点となったのが、常盤橋にあった上屋敷であった。 福井藩は寛永10年(1633)辰ノ口北角に上屋敷を拝領、さらに明暦3年(1657)3月に霊岸島(明暦の大火後)に上屋敷を移した。正徳3年(1713)に常盤橋に上屋敷を拝領し、維新まで続いた。勝海舟は龍馬に海軍塾を神戸に設立する資金調達の為、福井の春嶽を訪ね、5千両の金を借り受けることに成功した。現在の所在地はNTT関東支社や東京国際郵便局がのどの社屋がたつ一帯である。

<住所>
千代田区大手2
<交通>
JR「東京駅」丸の内北口より徒歩5分
勝海舟邸跡
勝海舟邸跡
勝海舟
勝海舟

■勝海舟邸跡 (元氷川坂下邸跡)

弘化3年(1823)に本所入江町より赤坂田町の借家へ転居。 当時は貧しくオランダ語「ズーフ・ハルマ」を筆写してお金を作ったのは この頃。ここで私塾を開き蘭学と西洋兵学を教授している。 嘉永5年(1852)には妹の順子が佐久間象山と結婚をする。 安政6年7月(1859)赤坂田町邸より転居しここに10年間住む。 咸臨丸艦長として、翌年渡米する。帰国は万延元年5月(1860) この3月3日に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された。
万延元年6月(1860)に番所調所頭取助を命じられた。 翌文久元年9月(1861)に講武所砲術師役となり、文久2年8月(1863)軍艦奉行並に任じられた。 同2年12月には、海舟の開明性に心服した坂本龍馬が門下生となった。翌年文久3年4月(1864)将軍家茂の内海巡覧に従い神戸海軍操練所の設立許可を受け、日本海軍創設の一歩を踏み出す。

<住所>
港区赤坂6-10-12
<交通>
・東京メトロ千代田線「赤坂駅」より徒歩5分
・東京メトロ日比谷線「六本木駅」より徒歩6分
・都営大江戸線「六本木駅」から徒歩6分
・東京メトロ南北線「六本木1丁目駅」より徒歩5分

容堂公墓
山内容堂の墓(大井公園)
※東日本大震災の影響で墓地の
参拝は現在できない。


■山内容堂の墓
(大井公園内)

山内容堂の遺言により大井村の下総山(土佐山)に葬られた。 現在の大井公園内に墓所はある。かっては土佐藩の下屋敷があつた所である。容堂は幕末4賢侯の一人として活躍した人物である。大政奉還を幕府に建白した。また無類の酒好きで、自らを「鯨海酔侯」と称した。 維新後は、内国事務総裁などを歴任し、明治5年(1872)に没した。 享年45歳)

<住所>
東京都品川区東大井4-8
<交通>
京急「鮫洲駅」より徒歩5分
後藤象二郎墓

■後藤象二郎墓(青山霊園)

後藤象二郎は吉田東洋の門下生であった。21歳で幡多郡奉行に抜擢され、続いて、近習目付になる。だが、吉田東洋が暗殺されると、後藤も失脚した。 その後文久2年、山内容堂が権力を握ると大監察に登用された。慶応3年1月、坂本龍馬と長崎で会合し、世界情勢について語り合い、意気投合する。その後、後藤の進言で、亀山社中を海援隊に改称した。ふたりは藩船“夕顔丸”に乗船し「船中八策」を作成し、これを基に大政奉還の建白書が作られ、容堂公の手から幕府に提出された。維新後は、逓信大臣、農務大臣を務めた。

<住所>
港区南青山2-32-2 青山霊園内
<交通>
東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩7分
平井加尾の墓

■平井加尾墓(青山霊園)
(龍馬初恋の人)

坂本龍馬の初恋の女性と言われる。兄は土佐勤王党の平井収二郎で、龍馬とは同志であった。嘉永5年(1852)山内容堂の妹、恒姫(ひさひめ)が三条公睦(きんむつ)に嫁いだが、一時期、加尾も恒姫に近待して京で過したことがある。そのおり、龍馬は加尾に男装して、勤王のため働くことを誘う手紙を送った。 慶応2年、加尾は西山志澄を婿に迎えて、平井家を継がせ、一女をもうけた。

<住所>
港区南青山2-32-2 青山霊園内
<交通>
東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩7分
千葉定吉の墓

■千葉定吉・重太郎墓
(雑司ヶ谷霊園)

千葉定吉は龍馬が剣術修行で通っていた道場(桶町千葉道場)の師匠である。重太郎は、その定吉の嫡男で、妹が龍馬の恋人とも婚約者ともいわれた佐那だ定吉が鳥取藩の剣術指南役に就任したため、道場で龍馬に剣術指南をしたのは重太郎であった。後に重太郎も鳥取藩に仕えるようになり、政治的に活動する中で、勝海舟の開国論に反感を抱くようになり、文久2年龍馬とともに勝邸を訪れている。結果的に重太郎が龍馬と勝を引き合わせた格好となった。
戊辰戦争では、鳥取藩の歩兵頭として、一隊を率いて戦い、維新後は、鳥取県や京都府などの官吏となって生涯を終えた。

<住所>
豊島区南池袋4-25-1 
雑司ヶ谷霊園
<交通>
東京メトロ「雑司ヶ谷駅」より徒歩3分
お龍の墓
お龍の墓
お龍写真
お龍の写真

■お龍の墓・信楽寺(しんぎょうじ)

医師である父、楢崎将作が、安政の大獄に関連して牢死したため、一家は離散し長女である、お龍が母と弟妹を抱えて、貧困生活を送っていた。龍馬は見兼ねて伏見寺田屋のお登勢に預けた。慶応2年(1866)1月20日未明、龍馬と長州藩士三吉慎蔵と、薩長同盟の祝杯を挙げていたところに、伏見奉行所の捕り手に囲まれた。風呂に入っていたお龍はこれに気づき、浴衣のまま、龍馬に知らせ、間一発でのところを救った話は有名である。 又その時受けた手傷を、西郷のさそいで 薩摩の温泉で治した。その時お龍も龍馬と一緒に薩摩へ渡り、日本人初の新婚旅行(ハネムーン)をしたことでも有名である。

<住所>
神奈川県横須賀市大津町3-29-1
<交通>
京急「大津駅」から徒歩5分
佐久間象山塾
佐久間象山塾跡(電源開発ビル)
佐久間象山
佐久間象山

■佐久間象山塾 松代藩下屋敷跡

松代藩士で幕末有数の兵学者であった佐久間象山は、藩の学問所頭取を務め、天保年間には、神田お玉が池付近に居住していた。 松代藩主の真田幸貫(ゆきつら)が老中となり、海防事務を担当したため、象山は西洋砲術に傾注した。さらに洋学の勉強し、神田お玉が池時代から門人に教授していた。 嘉永5年5月28日に住居を木挽町に移し、この地で象山の学塾は大きく発展を遂げることとなる。嘉永6年3月付の「及門録」と題した砲術門人名簿には、勝海舟、河井継之助・吉田大次郎(松陰)・宮部鼎蔵ら多くの著明人の名前が確認できる。坂本龍馬も嘉永6年12朔日に象山の門下となった。現在地は電源開発ビル東側の、みゆき通り沿いである。

<住所>
中央区銀座6-15
電源開発ビル
<交通>
東京メトロ日比谷線
都営浅草線「東銀座駅」より徒歩5分

軍艦操練所跡

■軍艦操練所跡

安政4年(1857)に幕府は築地にあった講武所内に海軍教授所を設置した。 後に勝海舟が教授方頭取となり御軍艦操練所と改称した。 2度の火災にあい、慶応3年(1867)に浜御殿(現在の浜離宮庭園)に移転した。

<住所>
東京都中央区築地6-20
<交通>
東京メトロ日比谷線「築地駅」より徒歩10分
都営大江戸線「築地市場駅」より徒歩10分

士学館跡

■士学館跡(桃井道場)

千葉周作の玄武館、斉藤弥九郎の練兵館と並ぶ江戸3大道場の一つで、品格随一と言われた鏡心明智流・桃井春蔵の道場であった。この道場に土佐藩士の武智半平太や岡田以蔵らは入門して剣術を磨いた。土佐藩の中屋敷から徒歩2〜3分のところにあった。

<住所>
東京都中央区新富町-4-7
<交通>
東京メトロ有楽町線「新富町駅」より徒歩5分
菅野覚兵衛墓

■菅野覚兵衛
(本名:千屋寅之助)の墓
(光林寺)

土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862)に山内容堂を警護する五十人組に入って上京する。この頃、友人の高松太郎(龍馬の甥)の紹介で龍馬と知り合う。翌年、龍馬の薦めにより勝海舟塾に入門し、次いで神戸海軍操練所に入り、以後龍馬と行動を共にする。海援隊が結成すると幹部として活躍。龍馬の死後の慶応4年3月、彼の妻、お龍の妹、起美(きみ)と結婚をする。

<住所>
東京都港区南麻布4-11-25
<交通>
東京メトロ日比谷線「広尾駅」より徒歩5分
長岡謙吉墓

■長岡謙吉の墓(安養院)

家が代々医師であったため蘭学をはじめ医学や文学に通じた。安政6年(1859)に家業を継ぐため、長崎にいた医師・シーボルトに師事する。 帰国後、再び長崎に赴き、坂本龍馬と知り合い、海援隊の書記として活躍する。慶応3年(1868)の“いろは丸事件”では龍馬と共に交渉にあたり、さらに龍馬が後藤象二郎に指示した「船中八策」を筆記した。 慶応4年(1869)4月、最後の海援隊長を務めた。

<住所>
東京都港区芝公園2-3-2
<交通>
都営三田線「大門駅」より2分
中島作太郎墓

■中島作太郎墓(大運寺)

土佐国高岡郡の郷士の長男として誕生元治元年(1864)に脱藩して、一時長州に行ったようだ。その後、長崎に移って亀山社中に参加し、海援隊で活躍する。慶応3年(1868)の後藤象二郎と龍馬の歴史的会見をセッティングしたのも中島と言われ、後の“いろは丸事件”でも政治的手腕を発揮した。維新後は政府の役人となり、さらに元老院議員に登り、自由党を結成して副総裁を務めた。

<住所>
神奈川県中郡大磯町大磯1004
<交通>
JR東海道線「大磯駅」より徒歩3分
お龍と田中屋

お龍が勤めた横浜の料亭(田中屋)

江戸時代から明治にかけて、神奈川宿には1300軒以上の店があった。
現存しているのは田中屋だけである。お龍はここで数年間働いていたという。流暢な英語や強気な態度が外国人に好まれていたそうだ。当時、外国人を怖がっていた日本人の中で、そのグローバルな感覚は大変重宝されたらしい。また、お龍しか弾けなかった月琴の音色は、大変美しかったという。

<住所>
神奈川県横浜市神奈川区台町11-1
<交通>
JR・地下鉄横浜駅西口から徒歩7分
勝海舟生誕の地

■勝海舟誕生之地

勝海舟は文政6年(1823)にこの場所で産声をあげた。ここは父・小吉の実家である男谷家があった場所で、小吉は勝家に養子として入っていた。
その後、海舟が7歳の時に本所に居を移すが、それまではここで暮らしていた。

<住所>
東京都墨田区両国4-25-3 両国公園内
<交通>
JR総武線「両国駅」東口より徒歩6分
弘福寺

■弘福寺

隅田川のほとりにある禅寺。勝海舟は19歳の時から4年間ここで禅の修行を積んでいる。寺の創建は延宝元年(1673)で、中国の禅寺の影響を強く受けた建築様式が特徴。江戸時代から禅の修行に訪れる人が多かった。 境内には江戸末期のい儒学者・池田冠山ら著名人の墓碑が残されている。

<住所>
東京都墨田区向島5-3-2
<交通>
東武伊勢崎線「曳舟駅」より徒歩15分
牛嶋神社

■牛島神社

言問橋のたもと、隅田公園に隣接する本所地区の総鎮守。 かっては桜橋のたもとあったが、関東大震災後に現在の地に移された。 境内にある「撫で牛」は、体の悪い部分と同じ場所を撫でると治癒すると伝えられており、江戸庶民にも評判だったそうだ。 勝海舟が本所で暮らしていた頃、境内で剣術の修行に励んでいたという言い伝えも残る。

<住所>
東京都墨田区向島1-4-5
<交通>
東武伊勢崎線「業平橋駅」より徒歩10分
能勢妙見堂

■能勢妙見堂

勝海舟が幼少期に犬に急所をかまれ大怪我を負った際、父・小吉が全快を祈ったのがここだと伝えられている。その縁で、境内には勝の胸像が建てられている安永3年(1774)旗本・能勢頼直らが江戸屋敷内に能勢妙見堂別院として建立したのが始まりで、毎年2月15日には、天下泰平を祈願する例大祭が行われる。

<住所>
東京都墨田区本所4-6-14
<交通>
都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋駅」より徒歩10分
うなぎ やっこ

鰻「やっこ」

ジョン万次郎に連れられて勝海舟もよく訪れていたという。 創業は寛政年間(1789〜1801)という老舗である。 国産鰻を使ったうな重は、あっさり薄めのタレで鰻本来の旨味を引き出した「やっこ」ならでは味。200年前から受け継がれてきた味である。
現在の建物は大正時代の和洋折衷建築を意識した内装になっている。

<住所>
東京都台東区浅草1-10-2
<交通>
東京メトロ銀座線「田原町駅」より徒歩3分
壺屋総本店

壺屋総本店(最中)

江戸時代創業の和菓子の老舗。当時からかわらないレシピで作られている最中は、後味がさわやかな甘さが特徴。江戸時代には赤坂氷川神社近くに店を構えていた。幕末には勝海舟も足繁く通っていたそうである。 明治初期に一度店を閉めるが、勝海舟の励ましにより再度開店。その縁で店内には勝海舟直筆の額が飾られている。

<住所>
東京都文京区本郷3-42-8
<交通>
東京メトロ丸の内線・都営地鉄大江戸線「本郷三丁目駅」より徒歩8分

勝安芳邸跡

 

 

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■勝安芳邸跡(かつやすよし)

安芳(やすよし)は、勝海舟が維新後に改名した名。 勝海舟は明治5年(1872)から亡くなるまで明治32年(1899)までここに住んでいた。海舟の死後、邸宅跡地は東京市に寄贈され、氷川小学校となった。その氷川小学校も平成5年に廃校となった。現在は区立特別養護老人ホームとなっている。

<住所>
東京都港区赤坂6-6-14
<交通>
東京メトロ千代田線「赤坂駅」5b出口徒歩5分