江戸史跡散歩の会

東京散歩「江戸史跡散歩」(新撰組の江戸史跡を歩く)

近藤勇胸像
近藤勇胸像
龍源寺
龍源寺本堂

近藤勇胸像と龍源寺

曹洞宗の寺、近藤勇の生家・宮川家の菩提寺 。 門の横に近藤勇の胸像、近藤勇墓所の碑、近藤勇と天然理心流の碑が並ぶ。 板橋で斬首された近藤の遺体は、甥の勇五郎が肩の鉄砲傷で勇であることを確認し、引き取ってここに埋められた。妻つねの墓もある。名前が刻まれていない墓は、勇の甥である新撰組隊士宮川信吉で、慶応元年(1865)に入隊し、油小路の変後、天満屋で海援隊に襲撃さえ25歳の生涯を閉じた。

<住所>
東京都三鷹市大沢6-3-11
<交通>
JR中央線「三鷹駅」よりバス15分
「龍源寺」下車
近藤勇生家井戸

■近藤勇生家の井戸

近藤勇は多摩上石原の豪農宮川家の3男として生まれた。 名前は勝太。多摩は幕府直轄地であり、代官が配されなかったこともあって豊かな農家では師弟に学問を修め剣術道場へ通う者が多かった。現在の生家跡には、 井戸と近藤神社の祠があるだけで往時には7,000平方メートル(2,120坪)の敷地に母屋、蔵屋敷、文庫蔵などが並んでいたという。

<住所>
東京都三鷹市野水1−6
<交通>
JR中央線「三鷹駅」よりバス17分
「野川公園下車」徒歩3分
近藤勇墓

■近藤勇の墓

龍源寺は近藤勇の生家・宮川家の菩提寺。門の横に近藤勇の胸像と 近藤勇墓所の碑がある。 近藤勇の墓と妻つねの墓、海援隊に討たれた新撰組隊士、宮川信吉の墓などがある。 板橋で斬首になった近藤の首は、京都に運ばれ、池田屋のすぐ傍の三条河原で晒されたのち、霊山墓地に埋葬された。身体のみがここに埋葬されて弔われている。

<住所>
東京都三鷹市大沢6-3-11
<交通>
JR中央線「三鷹駅」よりバス15分
「龍源寺」下車
近藤道場

■近藤道場撥雲館(天然理心流)

近藤の生家前にある。現在も天然理心流の道場として使われている撥雲館。
命名は新撰組の前身である浪士組を京都へ率いて行った山岡鉄舟である。 近藤の甥・娘婿の勇五郎が宮川家の敷地内に道場を建設し、天然理心流を継承し 後世に伝えている。

<交通>
JR中央線「三鷹駅」よりバス17分「野川公園」下車、徒歩3分
西光寺

■西光寺

慶応3年(1867)10月、江戸に戻った新撰組は、甲府城接収のため、 新たに募兵し、甲陽鎮撫隊として再編された。近藤は敗軍の将ながら大名駕籠で故郷に凱旋し、西光寺に立ち寄り必勝を期して出陣した。近藤の坐像の横には、のちに西南戦争に従軍した地元兵士の招魂碑が並んでいる。

<住所>
東京都調布市上石原1−28
<交通>
京王線「西調布駅」から
徒歩4分。
大国魂神社

大國魂神社
(おおくにたまじんじゃ)

文久元年(1961)近藤勇の天然理心流4代目襲名披露と神前で奉納試合が行われた 野試合には総大将・近藤以下、佐藤彦五郎、土方歳三、井上源三郎、沖田総司、 山南敬助らが参加した。 参道の欅並木は、前九年の役の戦勝祈願をした源頼義、義家が奉納したのが起源。 のちに徳川家康が馬場を寄進し、軍馬を取引する馬市が開かれるようになった。 こうした、古から続く坂東武者の尚武の風が新撰組の士道に影響したのであろう。

<住所>
東京都府中市宮町3−1
<交通>
京王線「府中駅」より
徒歩5分
土方歳三像

土方歳三の像(高幡不動尊)

関東三不動の一つ。不動明王坐像と不動明王二童子像が有名で、高幡不動尊と呼ばれる。創建は古く、奈良〜平安時代初期に遡る 土方家の菩提寺であり、土方歳三も再三訪れた所である。 近藤勇と土方歳三を顕彰した殉節両雄碑などが立ち、新撰組フアン必見の地。

<住所>
東京都日野市高幡733
<交通>
京王線「高幡不動駅」より徒歩5分
石田寺

■土方歳三の墓(石田寺)

愛宕山地蔵院石田寺は、土方家の菩提寺 高幡不動尊の末寺で、ここに歳三の墓と明治100年を記念して建立された。
土方歳三義豊之碑がある。最後まで戦い続け、函館で戦死し五稜郭に埋葬された。

<住所>
東京都日野市石田1−1−10
<交通>
多摩都市モノレール「万願寺駅」
下車 徒歩2分
日野宿本陣

佐藤道場跡・日野宿本陣

甲州街道日野宿・佐藤彦五郎の名主屋敷は、本陣であり、天然理心流道場でもあった。また土方歳三の姉ノブの嫁ぎ先でもあったので、歳三も度々訪れ玄関脇の静かな座敷でよく昼寝をしていたという。 佐藤彦五郎は新撰組の後援者であり、甲陽鎮撫隊では春日隊を率いた。近藤勇も出稽古でよく訪れていた場所である。

<住所>
東京都日野市日野本町2-15-9
<交通>
JR中央線「日野駅」より徒歩12分
とうかんの森

■とうかん森

土方歳三は日野石田村のお大尽と呼ばれた土方家の4男として生まれた。
生家は現在の土方歳三資料館より多摩川に近い、とうかん森の北東いあった。
現在のとうかん森は、住宅地の中に数本の古木に囲まれた稲荷社の祠が残るだけ 、幼い歳三が遊んだ幕末のころは、こんもりとした鎮守の森であった。

<住所>
東京都日野市
新井49
<交通>
多摩都市モノレール「万願寺」駅より徒歩5分
土方歳三資料館
開館日:毎月第1・第3日曜日
 (臨時開館あり)12:00〜16:00

土方歳三資料館

とうかん森近くの土方歳三の生家。歳三が12歳の時多摩川の水害を被り 今の地に移転した。歳三が相撲の張り手にした生家の大黒柱が資料館の梁に使われ、手植えの矢竹や、梅の古木などを眺めることができる。 資料館には、歳三の愛刀「和泉守兼定」「鎖帷子」「鉢金」書簡など歳三の遺品や 家業の石田散薬製造具などが展示されている。

<住所>
東京都日野市石田2-1-3
<TEL>
042-581-1493
<交通>
多摩都市モノレール「万願寺」駅より徒歩2分
井上源三郎墓

■井上源三郎墓(宝泉寺)

井上源三郎は新撰組で副長助勤・六番隊隊長であった。池田屋事件の時は土方隊として池田屋に駆けつけた。鳥羽伏見の戦いに参戦し、奮闘するものの、洋式軍備を整えていた薩摩軍らの新政府軍の銃弾を浴びて戦死した。もはや、刀の時代は終わったのである。

<住所>
東京都日野市日野本町3−6−9
<交通>JR中央線「日野駅」より
徒歩2分
井上源三郎資料館
開館日:毎月第1・第3日曜日
     12:00〜16:00

井上源三郎資料館

井上源三郎資料館は、日野宿の佐藤道場から歩いて5分くらいのところにある。
佐藤道場では近藤勇の兄弟子として、天然理心流の免許皆伝となった。

<住所>
東京都日野市日野本町4−11−12
<交通>JR中央線「日野駅」より
徒歩7分
小島資料館
開館日:毎月第1・第3日曜日
13:00〜17:00(1月・2月は休館)

小島資料館

多摩小野路の名主・小野鹿之助は、日野の佐藤彦五郎と同じく、近藤勇をはじめ、土方歳三、沖田総司らを物心両面で支援し、維新後にいち早く新撰組を顕彰した。
資料館には、新撰組関連の書簡や遺品が多数所蔵・展示されている。近藤勇が着用したどくろの刺繍の稽古着なども展示されている。

<住所>
東京都町田市小野路950
<交通>
小田急・京王「多摩センター駅」より
バス35分「小野神社前」下車徒歩1分
新撰組ふるさと館
開館日:9:30〜17:00
月曜日・年末年始休館(臨時休館あり)

新撰組のふるさと歴史館

新撰組隊士の故郷・日野に平成17年に開館した。 平成22年にリニューアルして充実した新撰組の常設展示をしている。 日野宿、甲州街道、八王子千人同心といった、地元にちなむ展示もある。

<住所>
東京都日野市神明4−16−1
<TEL>
042-583-5100
<交通>JR中央線「日野駅」より
徒歩15分
今戸神社

沖田総司終焉の地碑
(今戸神社

肺病(労咳)を発病した沖田は江戸帰還後、新撰組の後援者でもあつた松本良順の医学所で治療を受けていた。新政府軍の江戸侵攻後、松本は患者たちと共に今戸神社に移って治療を続けた。沖田が没したのは千駄ヶ谷という説もある。

<住所>
東京都台東区今戸1−5−22
<交通>
東京メトロ銀座線・都営浅草線「浅草駅」より徒歩
15分
専称寺

■沖田総司の墓(専称寺)

沖田総司は天然理心流試衛館の内弟子になり、18歳で師範代となった。 池田屋事件では近藤勇と共に斬り込んだときは、すでに肺病を発症していた。 専称寺は沖田家の菩提寺で沖田家の墓の奥に総司の墓がある。( 現在は非公開)

<住所>
東京都港区元麻布3-137
<交通>
東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木」駅より徒歩10分
釜屋跡

■釜屋(上洛、東帰時に滞在)

品川寺門前の建場茶屋(街道の休息所)であったが、幕府関係者が宿泊にも利用した。慶応3年(1867)10月、土方歳三が隊士募集のため、帰還した際に、入隊希望者を連れて宿泊したという記録がある。しかし、それから3か月もたたずに、翌年1月鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜の後を追い、大阪から江戸に幕府軍艦で逃れた、その帰還の際も土方や隊士たちが滞在して骨を休めたところである。

<場所>
東京都品川区南品川3−6−50
<交通>
京急線「青物横丁駅」より徒歩5分
板橋宿

■板橋宿

近藤勇の最後の地となった板橋は、中山道最初の宿で、皇女和宮が江戸へ下向の際には、最後の宿泊地となった。和宮の行列は7000人を超え、降嫁に反対する尊攘志士の襲撃に備えて、41藩が警護に動員された。男女の悪縁を切るといわれた縁切榎の前を通らぬよう、迂回路が用意された。

<交通>
JR埼京線「板橋」駅より徒歩5分
板橋近藤墓
新撰組隊士供養塔
近藤勇石像
近藤勇銅像

■近藤勇と新撰組隊士供養塔

板橋の東山道総督府に連行された近藤勇は大久保大和と名乗っていたが 新政府軍に転じた元新撰組隊士に近藤本人と見破られ、武士のとしての切腹ではなく罪人として斬首刑を言い渡された。 坂本龍馬暗殺は新撰組の仕業と決めつけた、土佐の谷干城が強く主張したため言われている。流山から逃れた土方歳三は、江戸へ潜入して勝海舟に近藤の助命を掛け合ったが、叶わなかった。 この新撰組の鎮魂、顕彰の墓地は、甲州勝沼での敗戦後、近藤と袂を分かち 靖共隊を結成、明治まで生き残って新撰組の証言を残した、永倉新八が明治9年(1876)に、松本良順などの援助を得て設けた。永倉も死後、遺言通りこの地に墓が建てられた。新撰組慰霊碑がある、寿徳寺境外墓地。 慰霊碑前面に近藤と土方の名前 左面に病死、切腹などの死者64名、右面に戦死者40名の名が刻まれている。

<場所>
東京都北区滝野川7−8−1
<交通>
JR埼京線「板橋駅」から徒歩1分
五兵衛新田

■五兵衛新田金子家

慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いに敗れ新撰組は江戸へ帰還した。 そして甲陽鎮撫隊となり、3月甲府城接収を図るが、新政府軍に惨敗した。その後、松本良順の伝手で約数十名が五兵衛新田の開拓した分限の金子家を頼った。 金子家には旧幕臣などが三々五々集まり、最終的には200名超の軍勢となって ここで再起を期した。

<場所>
東京都足立区綾瀬4−15−21
<交通>JR常磐線・東京メトロ千代田線「綾瀬駅」より
徒歩7分
綾瀬 観音寺

■綾瀬観音寺

五兵衛新田を開拓した金子五兵衛が開基となった寺院である。新撰組には、旧幕臣なども加わり、金子家だけでは収容をもてあますほどの人数に膨れ上がり、 一部の隊士は、金子家の菩提寺である観音寺に駐屯することになった。 この大人数の隊士たちの膨大な滞在費用のほとんどは、金子家が負担したのである。

<場所>
東京都足立区綾瀬4−9−6
<交通>JR常磐線・東京メトロ千代田線「綾瀬駅」より
徒歩5分
流山 陣屋跡

■近藤勇陣屋跡

五兵衛新田で軍勢を整えた近藤勇・土方歳三は、松平容保の領国・会津を目指し、慶応4年(1868)4月、下総流山の味噌醸造家長岡屋で陣を張った。 近藤は大久保大和、土方は内藤隼人の変名を使った。一部隊士は近くの長流寺などに駐屯した。しかし、同月3日新政府軍に急襲され、陣屋が取り囲まれた 近藤は切腹しようとしたが、土方に止められ、変名で投降し説破を試みたが、変名を見破られ、板橋にて斬首刑と決まった。 土方は江戸に潜入し勝海舟らに救命工作を図るが、近藤勇を助けることはできなかった。

<場所>
千葉県流山市流山2−108
<交通>
総武流山線「流山駅」より徒歩3分
流山浅間神社

■浅間神社(せんげんじんじゃ)

新政府の東山道軍は粕壁(埼玉県春日部市)から流山に進軍し、近藤勇の陣屋からわずか100mほどの浅間神社に本陣を設けた。浅間神社の本殿裏にある富士塚には、錦旗が翻ったとも言われている。新政府軍に投降した変名の近藤勇は 越谷(埼玉県越谷市)の東山道軍本営に連行されて身元が露見してしまい、板橋の東山道軍総督府に移送され、板橋で斬首刑となった。

<場所>
千葉県流山市流山1−154
<交通>
総武流山電鉄「流山駅」より徒歩3分

 

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