東京散歩「江戸史跡散歩」 |
中高年にお勧め。散歩を通して江戸の歴史を知ることが出来ます。古地図を片手に、さあ江戸史跡散歩に出掛けましょう! |
東京散歩「江戸史跡散歩」(桜田門外の変史跡を歩く)
「桜田門外の変」画 外桜田門 |
桜田門が作られたのは、寛永13年(1636)のこと。 江戸城の各門の多くが前後ふたつの門をもつ構造(桝形門)している。 桜田門も外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造となっている。 安政8年(1860)3月3日、この門外で時の大老・井伊直弼が水戸浪士に襲撃される「桜田門外の変」が勃発する。 襲撃した水戸浪士ら18名に対して大老井伊直弼の行列は60名ほどであった。 直弼の載る駕籠に最初に刃を突き刺したのは水戸浪士・稲田重蔵である。首級を挙げたのは 薩摩藩士・有村次左衛門であった。この事件をきっかけにコ川幕府の終焉へと時代は大きく変わってゆくこととなる。 |
<場所> 東京都千代田区皇居外苑 <交通> 東京メトロ有楽町線「桜田門」より徒歩1分 |
彦根藩上屋敷跡 彦根藩上屋敷門(映画セット用再現) |
彦根藩はかって呉服橋、ついで常盤橋に上屋敷を所有していた。寛永8年9月(1631)に現在地を幕府より下賜された。以後明治維新まで上屋敷の場所は変わらなかった。 総坪数は1万9815坪という広大な敷地であった。井伊直弼は嘉永3年(1850)の彦根藩主となり、安政5年(1858)に大老職についき、アメリカとの間に日米修好通商条約を天皇の勅許を得ず結ぶ。このことに対し、水戸藩主コ川慶篤(よしあつ)と前藩主の斉昭(なりあき)らが、江戸城に登城し、大老井伊直弼を非難した。またこれと同じく次期将軍継嗣問題が絡み、安政の大獄へとつながってゆく。 |
<場所> 千代田区永田町1丁目 <交通> 東京メトロ有楽町線「桜田門」より徒歩5分 |
男坂石段(86段) 愛宕神社 |
桜田烈士とは、「桜田門外の変」に加わり井伊直弼を襲撃した水戸浪士や薩摩の浪士たち18名のことを指す。安政7年(1860)3月3日早朝、襲撃前の烈士たちは、雪の降る愛宕神社に集結している。 愛宕神社は、江戸の町づくりを開始した徳川家康の命により、慶長8年(1603)に江戸の防火のために火伏の神を祀った神社だが、戦勝にも霊験があることで知られていた。烈士もこれから決行する襲撃の成功を祈ったことだろう。 こうした縁から、「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」は昭和16年(1941)に建てられた。 碑の裏に18名全員の名と、当日の様子が刻まれている。 題字を揮毫したのは、当時の東京市長大久保留次郎である。 |
<場所> 東京都港区 愛宕1 <交通> 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」から 徒歩10分 |
豪徳寺仏殿 井伊直弼の墓 |
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<場所> 東京都世田谷区豪徳寺2 <交通> 小田急「豪徳寺駅」より 徒歩10分 東急世田谷線「宮坂」より 徒歩5分 |
有村次左衛門(1838〜1860)は「桜田門外の変」の襲撃側で唯一水戸藩出身ではなかった。薩摩藩士の家に生まれ、江戸に出て北辰一刀流を学び、尊攘志士たちと交流を持った。安政5年(1858)「安政の大獄」が始まると、同藩の大久保利通らと脱藩挙兵を企図。大久保は脱藩しなかったが、有村は脱藩を強行(安政6年)し、 安政7年には交流のあった水戸浪士と共に井伊直弼を襲撃した。 井伊直弼の首級をあげたが、井伊の従者に切られ深手を負い、自刃した。(享年22歳)ともに脱藩した、兄雄助は襲撃の計画には参加したが、実行部隊には加わらなかった。変後、薩摩の同志に決起を促すため上洛するが、藩の追っ手に捕まり自刃させられた。 |
<場所> 東京都港区南青山2 <交通> 東京メトロ銀座線「外苑前駅」から徒歩10分 |
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大安楽寺 十思公園と時の鐘 |
江戸時代、小伝馬町には国内最大の牢獄があり、吉田松陰も投獄され、処刑されている。江戸の牢屋敷は、はじめ常盤橋外にあったが、慶長18年(1613)にこの地に移され、明治8年(1875)5月に廃止されるまで存続した。その規模は2,168坪もあり、その四方は高い塀で囲まれていた。 明治になり、牢屋敷跡地には、大安楽寺が建てられ、一部は十思公園として残っている。園内には、吉田松陰辞世の句碑が立っている。 安政の大獄では吉田松陰をはじめ、橋本左内ら多くの文人らが処刑された。 |
<場所> 東京都中央区日本橋小伝馬町5 <交通> 東京メトロ日比谷線「小伝馬町駅」より1分 |
松陰神社本殿 吉田松陰の墓 |
松陰神社は、幕末から明治にかけての日本をリードする多くの人材を育てた吉田松陰が祭神。松陰は、安政6年(1859)10月27日「安政の大獄」を推し進める幕府によって、江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで処刑された。 その後、遺骸は小塚原回向院に葬られたが、松陰門下生の高杉晋作や伊藤博文によって 4年後の文久3年(1863)に現在の世田谷若林の地に改葬された。 当時、この一帯が長州藩主毛利敬親(たかちか)の別邸があった。 明治15年(1882)松陰門下生らは墓畔に松陰を祀る神社を創建した。 現在の社殿は、昭和2年(1927)から3年にかけて造営されたものである。 境内には寄進された石灯籠には、伊藤博文、山形有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨などのそうそうたる人物の名前が刻まれている。 |
<場所>
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福井藩士の橋本左内は幕政改革を進めていた福井藩主松平慶永の右腕ともいえる 人物。嘉永2年(1849)大阪で緒方洪庵の適塾に入門。安政4年(1856)慶永より抜擢され国事に奔走するようになる。しかし、安政5年に始まった「安政の大獄」により、慶永は隠居謹慎、」左内も捕縛され、伝馬町獄で斬首刑に処せられた。 |
<場所> 東京都荒川区南千住5 <交通> 東京メトロ日比谷線「南千住駅」より 徒歩5分 |
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梅田雲浜(1815〜59)は、若狭藩士・矢部岩十郎の次男として誕生。 祖父の家系を継いで梅田の姓を名乗る。天保元年(1830)江戸へ出て朱子学が学び、 天保14年(1843)からは、京都で藩の管轄する望楠軒の講師となって子弟を育てた。 嘉永5年(1852)、幕政を批判したため藩を追放されるが、藤田東湖や高杉晋作、佐久間象山などと交流、反幕的活動を行った。しかし「安政の大獄」により、安政5年(1858)に捕縛され、翌安政6年9月には、小倉藩の江戸藩邸獄中で脚気のために死亡している。 |
<場所> 東京都台東区松が谷3 <交通> 都営浅草線「浅草駅」より 徒歩5分 |
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掃部山はその昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎があったことから、 鉄道山と呼ばれていた。しかし明治42年(1909)7月、横浜開港50年を記念して、旧彦根藩士らが、土地を購入、井伊家の所有となり、井伊直弼の銅像を建てその官途名「掃部守」にちなんで、掃部山とよばれるようになった。 |
<場所> 神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘57 <交通> JR「桜木町駅」より徒歩10分 |
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桜田門外の変・水戸浪士の墓 |
最初に直弼の駕籠を目がけて斬り込んだのは稲田重蔵は、彦根藩士河西に切り殺された。有村次左衛門ほかの者は手傷を負い、その場で自刃または自首した。関鉄之助は各地を逃亡したが2年後越後で捕えられ、江戸で斬首された。「 桜田門外の変」襲撃者18人中生き残ったのはわずか2人であった。それ以外のものは、闘死、自刃または斬罪であった。 関鉄之助の愛人「滝本いの」の墓もある。「いの」は元吉原谷本楼の妓。鉄之助の潜伏の手助けをしたため幕吏に捕えられ伝馬町牢で拷問により獄死。 享年23才であった。 |
<場所> |